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この手にぬくもりを

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萌芽




 時は大正五年、五月初旬にさかのぼる。
 日射しは強いが、そよぐ風はまだひんやりと冷たくて気持ちがいい。
 大越喜久子は、日当たりのよい縁側に座って、本を読んでいた。それは、こっそり手に入れた与謝野晶子等の詩歌集で、……彼女のまわりの大人に見つかれば、「子供が読むものではない」と取り上げられるに決まっている、という曰く付きの本である。喜久子は、まだ見ぬ恋への憧れも、感傷的な想いも、こういった当代の女流歌人の作品から、影響を受け取っていた。
 歌人達によって情熱的な歌が詠われる向こうには、それに足る素晴らしい夫君の存在があるのだ。喜久子はそう思っていた。「男性」ではなく「夫君」なのは、彼女が愛する男性とは結婚によって巡り会うものだと思って育ってきたせいである。
 この考えが、喜久子に結婚というものに対して過剰に夢を抱かせる原因となっていた。憧れつつも、実際には遠い未来のこと、と具体的なことを考えるのは避けていたが、結婚して、相手と日々睦み合いながら生活すれば、きっとこんな風に情熱的な歌が、自分にも詠めるようになるのだろう。
 そんなことを思って胸を躍らせながら、喜久子は歌集の頁をめくる。
 すると、背後から「姉さん」と呼ぶ声がした。
 室内を振り返ると、弟の兼二が教科書を投げ出して、ひっくり返っている。
「分からないんだ、教えて」
 喜久子は、弟の元に寄り、示された所を覗いてみた。幾何である。女学校時代随一の苦手科目だ。
「中学校って、こんなに難しい事をやるのね」
 感心している喜久子から教科書を取り返して、兼二は首を振った。
「これは受験勉強だよ」
「受験? 去年中学に入ったばかりじゃない」
 その時にもこの弟は、随分勉強していた記憶があるので、喜久子は首を傾げる。
「陸軍の幼年学校を受けるんだよ。……言わなかったっけ」
 そういえば、軍人になる、とは以前から言っていた気がする。
 だが、この頃、世間の風は軍人に冷たい。軍服で街を歩く軍人は肩身が狭そうだった。少し前の日露戦争に沸き上がった頃のように、軍人に憧れる子供達も、そうはいない。父の遺言では、男の子は軍人に、ということだったが、喜久子の上の弟、長男の貢は早々に、軍人にはならないといって、中学に通っている。てっきり兼二もそうなのだ、と思っていた。
「そうなの。でも、分からないで私に聞くようじゃ無理ね」
 喜久子にからかわれて、兼二はふくれた。
「だから、教えてって言ってるんだよ」
「そんなこと言ったって、私もわからないもの。貢に聞きなさいよ」
 といってみたものの、貢は中学の寮に入っていて、家にはいない。
「姉さん、女学校出たんでしょう」
 兼二が疑いの眼差しを向ける。
「残念ながら数学はここまでやらないんです。……それより大丈夫なの? 確か軍人さんの入学試験って夏でしょう」
 二人で騒いでいると、母の庸子が、何事かと顔を出した。とっさに、喜久子は手に持っていた歌集を、素早く机の下に滑り込ませるのを忘れない。
「そうね、どなたかに家庭教師でもお願いしましょうか」
 話を聞いた母は言った。軍人を志望する息子の入学試験に備えて、若い優秀な将校に勉強指導を頼む、というのは珍しいことではないらしい。とはいっても、普通は軍人の父が気に入った後輩に依頼するのだろうが、大越家には、もう軍人だった父はいない。
「大沼さんにでも探していただきましょう。お願いしておくわ」
 軍神になった父、大越兼吉を慕う人は今も多い。この家を何かと気に掛けて世話をしてくれる者もいて、大沼直輔もその一人だった。彼は父が仙台の幼年学校で生徒監をしていた時の生徒で、父の指導に感銘を受けた、と言っていた。
 大沼と聞いて、喜久子はどきりとした。
「喜久子も学校を卒業したし、もうあのお話を進めてもいいですね」
 母が、喜久子を見てにっこり笑う。
「あのお話って」
「ご縁談ですよ」
 さらりと答える母に、喜久子は唖然とする。話が進んでいるなんて、まったく聞いていない。以前そういった話が出たが、喜久子はその時結婚のことなど考えたくもなかったから、その存在自体を考えないようにしていたのだった。
 確かに二年前に、耳をふさいだのは喜久子だったのだが、それにしても、それがまだ生きているなど、夢にも思っていなかった。


 数日後、来客があるというので、喜久子と兼二は一番奥の部屋に下がっているように言われていた。
「ねえ、家庭教師に来る人って、どんな人かなあ」
 そこはいつも二人が使用している部屋である。喜久子は縁側でくつろぎ、兼二は勉強道具を広げていた。鉛筆をくわえてぼんやりしながら話しかけてくる兼二に、喜久子は乗り気のない生返事をする。
「ねえ、どうしよう、こんなすごくおっかない人だったら」
 兼二は両手でピン、としたカイゼル髭の形を作りながら言う。
「そんなの怖がっていたら、軍人になんてなれないわよ」
と答えながらも、喜久子の声は気が抜けている。
「どうかした?」
 兼二が訝しんで尋ねる。姉は、ここ数日様子が変なのだ。少し考えてから、思い当たる節を探り当て、兼二はにんまり笑った。
「姉さん、自分の相手の方が気になるんでしょう」
「……何のこと」
 喜久子は明らかに狼狽している。
「……図星だ」
「兼二!」
 兼二は面白くなって、ニヤニヤしながら続けた。
「でも、それと家庭教師って無関係でもないかもよ。竹下の所にも、家庭教師がきてたんだけどさ、どうなったと思う?」
 勉強するのにも飽きてきた所だったので、兼二はここぞとばかりに、姉の返事も聞かず、話を始めた。
 同じ中学に通っている友人に、竹下宣彦という少年がいた。彼の父親は現役の軍人で、長男の彼を幼年学校に入れようと考えていた。竹下はかなり早い時期から受験勉強をさせられたが、どうも数学が分からない。見かねた父親が、若い中尉を一人連れてきた。竹下は週に一回、その中尉に数学を教わることになったという。
 それが軌道にのってきたある日、どうもおかしいことに気がついたという。姉の態度である。その中尉が来る日になると、やたら機嫌がよかったり、そわそわしたりする。宣彦が勉強を教わっているところに、お茶とお菓子を持ってくるのが、なぜか必ず姉だったりする。普段は滅多にそんなことをしないというのに、おかしいぞ、と思うには充分だった。
 そして、お盆を持った姉が竹下の部屋へ入ってくると、なんだか、妙な空気が流れている気がするという。辺りに漂っている何かを、思いっきり振り払いたいような何とも言えない空気、と竹下は兼二に語ったが、話す本人も適切な表現を見つけかねているようだった。
「でさ、竹下のやつは、あいつの姉さんは絶対、その中尉が好きなんだ、とかいっててさ」
「竹下さんの所のお姉さん?」
「そう綾子さんだっけ。あの人、きれいだよね」
 しみじみと言う兼二に、喜久子は、馬鹿じゃないの、と呆れた。
「それがさ、相手の中尉さんっていうのも、背が高くて男前なんだってさ」
「ふうん」
 竹下綾子のことは、喜久子も知っている。学年は喜久子の方が一つ上だったが、女学校で顔なじみである。同年代、同性の目から見ても非常にかわいらしい少女である。
作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら