この手にぬくもりを
歪な時代
昭和十四年夏、板垣の陸軍大臣の職は、一年余りで終わりを告げた。
その夏の政局は混迷を深め、心労からか、板垣はすっかり食が細くなり痩せていた。「夏痩せだ」と言い紛らす彼の心中を嘆いていた喜久子は、辞任と聞いてほっとした気持ちの方が強かった。
板垣は再び大陸の戦場に戻ることになった。大臣よりは夫に向いているだろうと、喜久子も不安はありつつもさっぱりとした気持ちで出征を見送った。
戦時体制が長引き、徐々に暮らしにくい世の中になっていったが、家族が離れてはいるものの、昭和十六年までは、板垣家は平穏だった。
昭和十六年の春、板垣が東京に帰ってきた。以前にも何度か中央への報告や会議で戻ってくることはあったが、南京に出征して二年近く経っていた。心配したほどやつれてはおらず、むしろ顔色もよいので、喜久子は拍子抜けした。
すぐに出かけるというので用意した軍衣を着せると、堂々たるもので、大臣時代の方がよっぽど痩せていた、と喜久子は思った。
「どうした?」
袖を整える板垣が声をかける。
「いえ、お元気そうで安心しました」
喜久子は一歩下がって板垣の全身を眺めやる。スマートとは言い難いが、身体が軍服に添っていて、なかなか様になっている。
「やっぱり向こうの方が性に合っているからなあ」
板垣はそう言って笑う。喜久子は喜ぶべきだと思ったが、寂しい気持ちがして曖昧に笑った。
東京に戻った理由も、滞在期間も、喜久子の知るところではなかったが、その夜遅く、板垣は厳しい顔をして帰宅した。
「いつお戻りになるんですか?」
喜久子が声をかけても、板垣はしばらく、じっと腕を組んだまま黙っていた。
「えっ、なんだい」
喜久子が返事を待って不安になった頃に、板垣は我に返ったように顔を上げた。
夫を悩ませているものには触れがたく、喜久子はとっさに話題を探す。
「しばらくいられるのでしたら、写真を撮ったらいかがですか」
昼間の軍装姿を思い出して、言ってみる。板垣にとって望ましい任務なのだとしたら、その晴れ姿の写真が欲しい、と純粋に思った。
「写真か……そうだな」
板垣は少し思案して、何かを思いついたように頷いた。
数日後、喜久子が軍服と勲章を用意し、夫を写真館に送り出す用意をしていると、
「喜久子も一緒に撮るんだよ」
と言われて閉口した。
「私は結構です」
喜久子はあまり写真が好きではなかった。板垣の肖像写真が撮れればそれでいい。
「それじゃあ僕が困る」
板垣がそう口をとがらせたので、喜久子は観念した。その言い方は卑怯だ、と内心複雑な気持ちで、喜久子は自分の礼装の用意をした。
留袖を着付けながら、ふと、何かあるのだろうか、と思った。久々に二人で出かけ、ゆっくりと時間が過ぎていく。板垣は終始朗らかで、喜久子はいつになく、いい顔で写真に写ることができた気がした。
こんな日がいつまでも続けばいい、と喜久子は思ったが、望むべくもないことだと、すぐに打ち消した。
一週間後、慌ただしく帰宅した板垣が、苦々しい顔つきをして喜久子に告げた。
「今月中に経つことになった」
「かしこまりました」
当然、南京の支那派遣軍総司令部に戻ると思っていた喜久子は、素直にそう応えたが、板垣の様子がおかしかった。
「総参謀長はクビだそうだよ」
力なく微笑んでそう言う板垣に、喜久子は息を呑んだ。
「どちらに」
「……朝鮮」
それだけでは、喜久子には喜ばしいことなのか判別がつかなかった。
「内命はない。ただ、もう決まって、いるそうだよ」
板垣が静かに怒っているのがわかった。軍規紊乱だ、と強く吐き捨てるのを、喜久子は黙って聞いていた。
先日撮ったばかりの参謀長姿の板垣の写真が、急に遠いもののように感じるのだった。
朝鮮への内命のない赴任は、それ自体に箝口令が出ていた。周囲に何も告げず旅立つ板垣に、喜久子はついていくことに決めた。
始めは難色を示した板垣に、喜久子は、長居はしない、様子を見たら帰る、という約束で、同行を許してもらう。
重苦しい旅路だった。誰と会っても行く先も言えず、挨拶を交わすのもそこそこに去る。板垣はほとんど無言だった。
喜久子もまた、その隣で戸惑っていた。
何度も海外赴任は経験したが、今回初めて、板垣と一緒に現地へ行けることになり、その点は喜んでいたのだが、どうにも窮屈なのだ。
東京駅で汽車に乗る時から、護衛なのか憲兵なのか、二人の男がずっとついてきている。箝口令がどうの、と言っているのが聞こえたが、詳しいことは喜久子には分からない。問題人物とでも思われているのだろうか。良い気分がしない。
関釜連絡船に乗り込んだ際に、船室で板垣に聞いてみた。すると、
「ああ、僕に余計なことを言って欲しくないんだよ」
と穏やかに言うのだが、内容はどう考えても穏やかではない。
なんとも、感じの悪い始まりであった。
しかし、そういった窮屈さをのぞけば、朝鮮軍司令官時代は、今までと比べるとゆったりとした生活が出来た。二人で過ごす余暇は多く、板垣は乗馬、弓、読書に精を出していた。喜久子はその生活を楽しんでいたが、米国との戦争が始まり、内地での戦時体制が一層色濃くなる中、一つ取り残されたように平穏な京城での暮らしに、板垣は満足していないようだった。
自由にものが言えない状況なのか、二人きりになると、喜久子に政治的な事をたまにこぼした。
喜久子はただ聞いていることしかできない。
自分の意見が通ると、板垣はそれを嬉しそうに話してくれた。