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この手にぬくもりを

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 昭和十四年年明け早々、近衛内閣は総辞職した。喜久子の感じた予兆は確かなものだったが、続く平沼騏一郎内閣においても、板垣陸軍大臣は留任。陸相官舎生活は、まだしばらく続くこととなった。


「心配なんです。あの子は昔から一番手がかかって」
 そのくせ、昔から「軍人になる」と将来の夢だけはしっかりしていた。受験勉強もよく頑張っていて、なんとか合格させてあげたいと思っていたはずなのに、いざ学校に入れるとなると心配でたまらない。子供のやりたいようにしてやりたいと、そう考えていたはずなのに、心は揺らぐ。
 母親というのはなんと勝手なのだろう。正が幼年学校で軍人生活に対応していけるかどうかを心配する影に、まだ手元に置いておきたいという願望が残っている。
「なんとかなるものさ。僕だって中学に入った頃までは、甘ったれの泣き虫だった。それでも三つの頃から陸軍大将になる、と言い張って、なんとか軍人の端くれにはなってる。大将になれるとは思ってないけどね」
「もう充分ですよ。大臣閣下にまでなってしまって……これで端くれだなんて」
 そこで喜久子はふと手を止め、ちらりと夫の方を見た。
「甘ったれで泣き虫……ですか」
「何だよ」
「いえ、分かるような気がしますから」
 くすくす笑う喜久子を横目に、板垣は決まりが悪そうに苦笑した。
「それに生意気で自惚れ屋だ。正は真面目に勉強をしているし、全く心配がないさ。何せ僕は受験勉強なんてほとんどしないで入学したもんだから、甘かった。入った途端、生徒監殿にがつんとやられてようやく謙虚になったわけだ……なんだ、もう笑うところじゃないぞ」
 喜久子は、顔をほころばせたまま話を聞いている。
「だって今、話を逸らしました」
「……」
 板垣が憮然としたので、喜久子はこの辺りでからかうのを辞めた。
「私は、泣いて、甘えて……そういうのが自然に出来る子が羨ましいと思っていました。ずるい、とさえ思ってた。泣くのは嫌いだったし、甘えるのは苦手で……今思えば、かわいくない子だったんでしょうね」
 親になってみて分かった。我慢してききわけのいい子は、確かに手の掛からないいい子だけれど、わがままを言って、甘えて、正直に泣く子供のことも、嫌いになったりはしないのだ。素直に甘えて来る方がこちらとしてもかわいがりやすかったりする。
 それが、五人の子供の中でとりわけ正を心配してしまう理由なのかもしれなかった。
「じゃあ、どうして喜久子は泣き虫なんだろうなあ」
「そんなことありません!」
 力強く否定してみたが、板垣の前で泣いたことが数限りなくあるのは事実である。しかし、夫と二人の時以外は、喜久子は今でも泣くのが嫌いだったし、実際に泣くこともない。それを力説したかったが、さすがに恥ずかしく、喜久子は口をつぐんだ。
「ははは、嬉しいよ」
 そう言って、板垣は喜久子の肩を叩いた。彼女ははっと顔を上げ、声を裏返らせる。
「なっ……なにが嬉しいんですか?」
 頬が真っ赤に染まっている。
「ええと……なんだろう」
 板垣は空とぼけて、筆を執り書き物に戻ってしまう。
 喜久子は、早鐘のように打つ心臓を抑えながら、全身を駆けめぐる嬉しさに浸っていた。いい歳をしてこれが「恋い慕う」という気持ちなのだと思う。結局、いつもははっきりしたことは言ってくれないから、喜久子が勝手に想像して喜んでいるだけなのだが。
 でも、今でもこういう気持ちになれるというのは、とても幸せなことだと、思った。
 些細な時間が愛おしい。こうやって、書き物をする夫の傍らで墨を擦っている時や、朝の身支度で夫が釦を掛けている間。今や、地位や名声と引き替えに、二人の時間は多くが蝕まれていた。それでも、毎日家に帰ってくれるだけで、喜久子はありがたかった。戦争に行っていた頃よりは、ずっといい。これで、「大臣夫人」などという面倒な立場が自分になければもっといいのだけれど。
 本当に、大将になどならなくてもよかった。こんな立派な官舎に住まわなくたっていいのだ。
 そこに幸せがあるわけではないのだから。
作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら