この手にぬくもりを
昭和十七年の夏、次男の正が、休暇を利用して京城にやってくる予定になっていた。
駅まで迎えに行こうと、喜久子が軍司令官官舎の玄関を出ると、たちまち車寄せに自動車が回される。
扉が開き、「どちらまで」などと訊かれると戸惑ってしまう。場違いだと思いながらも、喜久子はこの扱いを拒む術を知らなかった。
勧められるままに車に乗り込むと、外から扉が丁寧に閉められ、年甲斐もなく心が躍った。
いつの間にか後ろ暗さは消えてしまい、正と二人、車に乗って官舎へ戻った。
父子は再会を喜び合い、久しぶりの家族の空気が流れる。ちょうど任務の関係で京城に寄った大越兼二も交え、にぎやかな時間を過ごした。
しかし、良い気分で一日を終え、夫婦二人になり、喜久子が昼間に乗った車の話をすると、板垣の顔色が変わった。
「どうして車に乗ったりしたんだ!」
突然一喝され、喜久子は飛び上がらんばかりに驚いた。頭が真っ白になる。
驚きと恐怖で血の気が引いていく。口を開いても言葉にならず、板垣の怒った顔を訳も分からず見上げることしかできない。
板垣に声を荒げて叱責されたのは初めてだと、実感する余裕もなかった。
「あれは軍の車だ。私用に使うなんてもってのほかだ」
公私混同は板垣のもっとも嫌うところだった。何故そこまで気がつかなかったのだろう。軍司令官夫人気分に浮かれて、取り返しのつかない失態をしでかした、と喜久子は思った。
「申し訳ありません。勧められましたので、お断りして良いものかどうか、分からなくて」
喜久子は涙声を必死に飲み込んだ。
自分の浅はかさを呪いながら、堪らなくなって部屋を飛び出した。
昔、叱られたいと思っていたことがある。何も知らなくて、叱ってくれるのが愛情だと、そんなことに憧れを抱いていた。
怒らないのは、自分に何も期待していないからではないかと、不安に思った事もある。
そんな、甘い自分が打ち砕かれるような衝撃だった。
恐ろしかった。それだけが体中を埋め尽くして押しつぶされそうになる。喜久子は、廊下にへたり込んでガタガタと震えた。
(嫌われたら。幻滅されたら、私の居場所はどこにもないのに)
怒られる事に免疫がなかったことが、より喜久子を恐怖に陥らせていた。
「姉さん?」
廊下の薄闇の中から、兼二の声がかけられる。喜久子は慌てて涙を拭い、声が上擦らないように慎重に息を整えた。
「なんでもないわ」
そう言って離れようとする喜久子を、兼二は躊躇いがちに呼び止めた。
「あの……さ」
暗くて、お互いの表情は読みとれない。喜久子が首を傾げるのが分かった。
「なに?」
「内地に、戻ってくれないか」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。それは、兼二の口から出てくる言葉の範疇を越えていた。喜久子は、唇を噛みしめる。
「そう、言えっていわれたの?」
「僕の考えだよ。姉さんだって思っているだろう、ここは窮屈だって」
確かに窮屈だった。外に出ようとすれば車が回され、護衛が付き、庭先に出るだけで遠くの歩哨が直立不動の体制を取る。外から喜久子への個人的な電話連絡は取り次いで貰えず、官舎は人の出入りに非常にピリピリしていた。喜久子は、ここでは邪魔なのかもしれない。
そこに、今日の失態がある。
板垣が、義弟に引導を渡すように頼んだとしても不思議ではない。
今日の愚かな行動一つで、全部失ってしまうのだろうか。頭の中が真っ白になる。
「喜久子!」
名前を呼ぶ声に反射的に振り返ると、そこには板垣が立っていた。
「……申し訳ありません……申し訳っ……!」
うわごとのように繰り返す喜久子を、板垣が抱きとめる。兼二は板垣をちらりと見やってから、軽く頭を下げてその場を去った。
「怒鳴ったりして悪かった。……喜久子のせいじゃないよ」
先ほどの怒鳴り声が嘘のような、板垣の声が降ってくる。喜久子は、泣きそうになるのをぐっと堪えた。
「いいんです。私がいけなかったのですから」
喜久子は俯いたままそう呟いた。板垣が短く息を呑む。
「部屋に戻ろうか」
喜久子の肩に手を回して、板垣が促した。喜久子はその手に黙って従う。
「最近、物騒な噂があって、兼二はそれを心配しているんだよ」
板垣は、寝室に戻り喜久子を座らせると、自分も隣に腰を下ろした。
「物騒な噂?」
「独立運動を企てているとか、暗殺を計画しているとかね。実際に何かあることはないと思うんだが」
喜久子はハッと息を呑んだ。車に乗ってはいけないのは、その為もあったのだ。
「それに、喜久子も窮屈だろう。人の出入りにも色々とうるさいしね」
喜久子は、黙って板垣を見上げていた。彼が今この時期に、戦争とは無縁のこの場所で、無為に過ごすことになった意味を、喜久子も何となく察していた。
「やっぱり、兼二の言うとおり、帰りますね」
「気にしなくてもいいんだよ」
「いいんです。もともと、ずっといるつもりで来たんではなかったんです。つい長居してしまいましたが、そろそろ戻らないと。正と一緒に帰ります」
落ち着いたら戻ってくる、という約束で家を出てきたことを思い出す。
「そうか」
板垣は、喜久子の肩を軽く叩いてから床についた。
「おやすみなさい」
灯りが消えた後、板垣が小さく呟いた。
「どうするのが、一番良いんだろうね」
喜久子は何も言えなかった。板垣は独り言のように続けた。
「正しいと信じてやっていても、恨まれることもある。良い事だと思っていたのに、そうならない時もある」
何の役にも立てない自分がもどかしかった。それでも、板垣が自分にだけ漏らしているということだけは分かった。喜久子には、夫の言葉を胸に刻み込むことしか、できなかった。