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この手にぬくもりを

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 陸相官舎での生活は、久々に家族が揃い賑やかだった。立場上、長くいられないのは覚悟していたが、それでも喜久子は、この環境を有り難く思った。

 一人遅くなる板垣の食事の片付けを終え、一息つこうとしたとき、喜久子は喉にかすかな違和感を覚えた。そういえば身体もかすかに熱っぽい。
 丈夫な質で、滅多に体調を崩さなかったのも昔の話で、最近は風邪を引けば長引き、いつまでも若く無いと実感する。
 大したことはなさそうだが今日は早めに休もう、と思って居間に戻ると、板垣が考え込むように読書をしていた。
 喜久子が、邪魔をしないようにと静かに腰を下ろそうとした時、板垣が頁を繰りながらつぶやいた。
「栗を頂いたと言ってたね」
 食事の時に板垣に報告した頂き物の中に、確かに籠一杯の栗もあった。どう料理するか決めあぐねて、そのままにしてある。
「焼き栗が食べたいなあ」
 板垣は何の気なしにそうつぶやいて、読書に戻った。
 今日の台所仕事は済ませた気でいた喜久子は、告げられた要望に閉口したが、反発をするのはやめた。黙って再び立ち上がる。
 板垣にこういう事を申し付けられるのは、むしろ珍しかった。疲れているのだろう、ここ連日、夜遅くまでの激務だったことを思うと、久々にゆっくり過ごす夜半前の些細なわがままを、喜久子は快く聞いてあげたいと思った。

 焼き栗をこしらえて居間に戻ると、板垣が視線を上げた。
「どうしたんだ」
 喜久子は板垣の傍らで膝をつき、卓に栗の入った器を置いた。
「どうって、召し上がりたかったのでしょう、どうぞ」
 板垣は焼き栗を見て、弱った顔をする。
「……ああ……ありがとう」
 歯切れの悪い板垣に、喜久子は首を傾げる。
「いや、ただのわがままだったんだから、聞いてくれなくてもよかったんだ」
「まあ、なんですかそれは」
 自分で申しつけておいて、いざ用意したら、なぜか申し訳なさそうにしている板垣に、喜久子はなんだかおかしくなった。
 口元に手を当てて声を出して笑うと、板垣が憮然とした表情で言った。
「何がおかしいんだ」
 喜久子はひとしきり肩を振るわせた後、神妙になって膝を正した。
「ごめんなさい。……そうね、別におかしくありませんね」
 そう言いつつも、喜久子の顔はほころんでいる。彼女は焼き栗を一つ手に取った。
「申し訳ありません、でも、そんな妙なわがままなんて」
「……喜久子だからだよ」
 皮を割り、栗を板垣に差しだそうとした喜久子の手が、止まった。
 眉を寄せ、目を見開いて泣くとも笑うともつかない表情をした喜久子は、口元を振るわせる。何か言おうとしたが、言葉が出なかった。
 喜久子が予想した通り、板垣はぼんやりと喜久子を見たまま、無言だった。
 沈黙を破ったのは背後からの無邪気な一声だった。
「あ、やっぱり栗だ」
 匂いを嗅ぎつけてきたのだろう、裕と正が降りてきて顔を覗かせた。
「お前達も食べるか」
 板垣がそう言うと、二人は揃って駆け寄る。
 喜久子はほっとしたような、残念なような気持ちで、父親の隣を二人の息子に空けてやる。こんな時しか、父子がゆっくりする時間もないのだ。
 わがままともつかないこのわがままを、聞いてよかったと思った。調子の悪さもどこかに吹き飛んだ気がする。
 冬の初めの、静かな夜だった。喜久子は胸の昂揚の余韻を噛み締めながら、焼き栗を剥きながら語らう彼らを飽かず眺めていた。


 朝食の支度をし、子供達を学校に送り出した喜久子は、時計を確認する。最近、板垣はなかなか起きて来ない。寝かせておきたいが、そうもいかない時間だった。
 昨夜も、板垣が床に入ったのは午前二時過ぎだった。咳風邪が抜けない喜久子は、横になるとひどくなる咳を押し殺そうと、蒲団をかぶって耐えながら寝た。それでも朝は時間通り起きたが、寝不足続きで、これではなかなか体調も回復しそうになかった。
「昨夜ひどく咳き込んでいたけど、大丈夫かい」
 目覚めて一番に、板垣がそう言ったので、喜久子は驚いた。てっきり眠っていると思っていたのだ。先日夜中に地震があったとき、喜久子が目を覚ましても、板垣はまったく気づかずに眠っていた。よほど疲れていて眠りも深いのだろう、と痛ましく思ったのを覚えている。
「申し訳ありません、うるさかったですね」
「そんなことはいいんだ、自分の健康に気を配りなさい」
 その、身体をいたわる一言が身にしみて、喜久子は不思議な気持ちがした。自分が歳をとったことを自覚する。
「なかなか昔のようにはいかなくて。……もう四十なんですもの」
「そうか、喜久子も不惑か」
 感慨深げにつぶやく板垣に、喜久子は首を振った。
「私は惑ってばかりです」
 身体の衰えは実感するが、中身は相変わらず年を経て成長出来ている気などしない。
「大変、時間です」
 喜久子は時計を見上げて声をあげた。これ以上板垣に何か言葉をかけられれば、涙が出てきそうだった。
 朝からしんみりしてしまった空気を打ち払うように、喜久子はてきぱきと床を上げ、夫に支度を促す。
 大臣だからといって重役出勤が許されるわけではない。朝一番に決裁を仰ぎたい陸軍省の職員がよく待っているのを、喜久子は知っていた。
「朝食はいいよ」
 そう言って、板垣はシャツのカフスボタンを留めながら、官邸への廊下を歩いて行く。見送り頭を下げる喜久子に、板垣は思い出したようにつぶやいた。
「引っ越しの用意はいつでも出来てるね」
 喜久子は神妙に頷いた。何か政変の予兆でもあるのだろうか、と喜久子は察したが、だからといってどうなるものでもなかった。

作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら