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この手にぬくもりを

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 喜久子としては承諾したつもりのない文通の、最初の一通が届いたのはしばらく経った後だった。母がいたく感動して読んでから、喜久子に返事を書くようにと渡してきた。
 見るのも嫌だ、と喜久子は顔を背ける。
(私宛の手紙なのに、当然のようにお母様が先に読むなんて)
 そう思って宛名を見ると、それは母と喜久子の連名宛てになっているのだった。
 当然だとは思った。文通という行為自体はどこか秘密めいていて、胸がときめくのだが、現実ではそんな秘密のやりとりなど出来るわけもない。そもそも葉書では文面を隠しようもない。
 さて、おそるおそる葉書を手に取り、裏返そうと思うのだが、なぜか喜久子にはそれが出来なかった。何が書いてあるのか、読むのが怖い。全く面識のない女学生宛に、陸軍中尉が一体何を書けるというのだろう。なぜか手紙の向こうの相手に同情してしまう気持ちだった。
「何て書いてあったの?」
 どうしても心が定まらない喜久子は、諦めて母に聞いた。
「何ってご挨拶ですよ、何をそんなに怖がる必要があるの」
 母は呆れて葉書を手に取る。喜久子が顔を青くして震えているのを見て、首を捻った。
 喜久子には昔から妙なことがあった。作文なども得意で、よく学校で取り上げられたりもするのだが、人に読まれての反応を極端に嫌うのだ。手紙の件は良いと思って引き受けたが、失敗だったかもしれない、と庸子は内心思った。
 結局喜久子は、最初の挨拶の手紙を必死の思いで何とか書いた後、もう二度とごめんだ、とそれきり文通の件は忘れてしまった。
 この本の通り、実際に手紙のやりとりはあったのだろう。ただし喜久子の母と板垣の間で。喜久子は気を取り直して、再び本をパラパラと捲ってみる。その母の談話まで載っているのだった。

 神妙な顔つきで夫のことが書かれた文を読む喜久子の横顔を、麻子は黙って眺めていた。面白がってからかうように持ち込んだ本だったが、喜久子の心中は、麻子にも察することは出来た。
 夫が大臣になった時、喜久子が記者の質問に答えた言葉に、多くの人々が「控えめで奥ゆかしい婦人」像を描いたらしい。この本にもまことしやかにそう書かれている。でも、そんな建前のためではなく、喜久子の本心なのだと、どれほどの人が気がついているのだろうか。
『夫が責任ある地位につくと言うことは、妻として喜ばしいことでありましょうが、私にとってはそれ以上に不安なのです。夫がその勤めを充分に果たせるかどうか…。至らないところがあるのではないかと、そればかり不安でなりません』
 昇進すればするほど、穏やかな生活とは遠くなる。
 それに、大陸の方では、板垣本人に五十万元という賞金がかけられている、らしい。喜久子本人は「もう馴れた」と笑っているけれど、そんな不安も地位ある人物になればこそのことだろう。
 地位が上がるにつれ、最前線で戦う危険は減っていくが、別の危険が増す。二・二六事件はまだ記憶に新しい。その前年の軍務局長斬殺事件も、麻子は自分の夫がそのポストに就くことになった時には、思い出されて仕方がなかった。
「ねえ、喜久子は今、幸せ?」
 麻子の問いに、喜久子は本を閉じた。
「幸せ……ではないけど、幸せなのかしら」
「相変わらずややこしいことを言うのね」
「思い描いていたのとは違うのよ。私が欲しい幸せは全然別なのだけど、でも、今も幸せって言える……ような」
 自分でも何を言っているのか分からなくなって、喜久子は天井を仰いだ。麻子がため息をつく。
「私、あなたと話していると、自分が幸せなような不幸なような変な気持ちになるわ」


作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら