この手にぬくもりを
父の遺影に手を合わせる大沼を、喜久子はぼんやりと眺めていた。大沼陸軍中尉は、喜久子の父が仙台幼年学校の生徒監をしていた時の教え子で、今でもこうしてたまに訪れる。挨拶をして辞そうとすると、大沼に声をかけられた。
「喜久子さんはすっかり娘さんになったね、もう女学校も卒業かな」
「ええ来年に」
なぜか母が答えたので、喜久子は黙っていた。今、卒業のことなど考えたくもない。
大沼は、それはちょうどいい、と言って笑った。
なんとなく去りがたくなって、喜久子が襖を閉めるのを躊躇っていると、母が目で咎める。
「どういうことですか」
と母が尋ねる声を最後に、喜久子は部屋に戻った。
嫌な予感がする。昨日、麻子に告げられた、卒業したら結婚する、という話。それが当然だという話。それは、喜久子にとっても当然理解していたことだったが、それを実感として受け入れられない現実。
卒業まであと半年しかないなど、考えられない。そして、自分が誰か知らない人と結婚するなど、まだ。
そう、まだ、なのだ。いつかはそうなるしかないことは分かっていても、今すぐという心の準備は出来なかった。そんな喜久子が導き出したのが、進学という道だった。
特に勉強が好きだったわけではない。しかし出来ないわけでもなかった喜久子は、女学生という今の状況を継続させるために、それを考えていた。
時間稼ぎでしかないことは分かっていたが、今は出来ない覚悟が、専攻科に進んだ二年のうちに出来るようになるだろう……ならなくてはいけない。
そんな決意をした矢先に、大沼が持ってきたのは、喜久子にとってとんでもない話だった。
「喜久子さん、文通をしてみる気はないかな」
「……文通?」
大沼に言われて、喜久子は思わず聞き返す。
「あなた、話すより書いたりする方が得意でしょう、良いのではない?」
母はとてもいい話だと言わんばかりに楽しそうだった。
「一体どなたとですか」
「僕の士官学校の後輩でね、彼も大越生徒監殿の生徒なんだ、今は仙台にいるんだけど……」
「知らない男の人と文通なんてできません!」
大沼の言葉を最後まで聞かずに、喜久子はきっぱりと言った。
「知らない人と見合いをするのは良くて、文通は駄目かい」
「お見合いだっていたしません、私まだ学校が」
先延ばしにしても、いずれは訪れる現実なのだと実感して、喜久子は嫌になった。
母はというと、喜久子に聞かせたのだからもう承諾した後なのだろう、
「良いお話でしょう、お手紙のやりとりなら学校に行っていてもできるでしょう」
と言う。喜久子の全身から血の気が引いた。