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この手にぬくもりを

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 冗談でも間違いでもなく、翌日には、板垣の陸軍大臣就任が発表された。記者の第一報から一日遅れて、板垣から連絡があり、喜久子達は慌ただしく広島を離れることになった。
 実はまだ実感がわかないのである。新聞を見ると、昨日撮られた喜久子の写真が載っている。「大臣就任を喜ぶ喜久子夫人」などと書かれているが、とても昨日は喜ぶ気分ではなかった。別の新聞には、東京にいる三人の子供の写真が掲載されていた。
 夢を見ているのだろうか。

 ようやく人心地がついたのは、大臣官舎に家族全員が揃ってからだった。
「すごい、ここに住むの」
「でも、大臣を辞めたら出て行かなくちゃいけないんでしょう」
「まだなったばかりなのに、辞める時の事なんて言わないでよ」
 皆で口々に騒いでいたが、父親が入ってくると一斉に駆け寄っていく。
「なんだ、すごい出迎えようだなあ」
 群がる子供達一人一人に応えてやりながら、板垣は終始笑顔だった。
 少し痩せて、やつれているのが気になったが、とりあえず喜久子はほっとした。変わっていない。
 が、変わっていないことで別の不安もあった。この人に大臣など務まるのだろうか。

 官舎の二階の窓から外を望むと、夜空にくっきりと議事堂の影が浮かんでいた。
「本当に大臣官舎なんですね……」
 喜久子は息を呑む。
「断り切れなくてね。自分でもむいてるとは思わないよ。喜久子も心配だって言ってたじゃないか、新聞に」
「あれは……ごめんなさい、無理だって言うつもりじゃなかったんです。驚いてしまって」
「そうだよなあ」
 これが、兼二の言っていた無欲の勝利というものだろうか。
「でも、大臣になったら、出来ることだって増えるんでしょう。あの……支那とのことだって、きっとあなたの思ってたとおりに……」
 喜久子の言葉に、板垣は寂しそうに微笑した。
「ならないんですね。変なことを言ってごめんなさい」
「謝ることはないよ。でも、本当に、大臣って何が出来るんだろうね」
 本気で言っているのか、言葉の綾なのか、喜久子には分からなかった。

 大臣の地位と責任は重かったが、正直に言うと、喜久子はその環境には少し期待していた。
 建物は生活部分である官舎と官邸で隣接している。今までよりも家族で過ごす時間がとれるのではないか。
 そんな期待は、就任一週間で早くも裏切られる事になる。朝一番には仕事に出かけ、帰ってくるのは日付が変わってからという流れが多い。
 一度休んでも、電話が鳴れば、そのまま出て行くこともあった。
 陸軍大臣がどういう仕事をしているのかは、喜久子には想像も付かなかった。しかし、連隊長時代や、出征した時にもまして痩せていく夫の疲れた姿を毎日目にするだけに、心配でたまらなかった。


 厳しい暑さもどうにか和らいできた、九月の終わり頃。
 よく晴れた午後、官舎の居間には、喜久子しかいなかった。彼女は、一人うつらうつらと微睡んでいた。
 ここ連日、夜遅くまで起きていることが多い。板垣の帰宅が夜半過ぎになり、彼は朝に入浴するので起床もその分早くなる。
 家に一人でいると、寝不足がたたって自然と眠くなってくるのだ。この日も喜久子が気持ちのいい風に当たりながら午睡をしていると、玄関で来客を告げる声がする。誰か訪問者らしい。
 眠気を振り切って応対に出るのはおっくうだったが、喜久子は何とか立ち上がった。
「こんにちは」
「麻子じゃない、どうしたの」
 戸を開けてみれば、そこには麻子が立っている。親友の予期せぬ来訪に驚く喜久子をよそに、麻子はにこにこしながら邸内に上がり込んだ。
「大臣官舎を一度見てみたかったの。就任のお祝いもしていなかったでしょう」
「てっきり満州にいるのかと思っていたわ」
 麻子の夫は、この六月に関東軍の参謀に補されたはずだった。ちょうど板垣の大臣就任と同時期だったので、喜久子は慌ただしくてゆっくり見送りをすることも出来なかったのを後悔していた。それから三ヶ月しか経っていない。
「私は、あなたみたいにどこにでもついていったりしないのよ」
「……どこにでもって」
「それより、読んだわよ、これ」
 客間に通されて席に着くなり、麻子はごそごそと荷物の中から、一冊の本を取りだした。
 飲み物を運んで来た喜久子も、麻子の向かいに座る。
 差し出された本を見て、喜久子は目を疑った。
「嫌だ、なに、その本は」
「知らない? 新陸軍大臣、板垣征四郎閣下の伝記本」
本はハードカバーで、表紙には板垣の顔写真が用いられ、でかでかと「板垣征四郎」とタイトルが示されている。
 写真は、もっとましな物はなかったのだろうかと思わずにはいられない写りの物で、喜久子は軽くめまいがした。
「…ご本人公認の本じゃないのね」
 喜久子の反応に麻子が意外そうな声を上げる。
「本を書きたい、って話があったようなことは聞いたけど……一圓四十銭?」
 喜久子は、本の裏表紙の値段表示を見とがめる。
「わざわざ買わなくても、この家のどこかに一冊くらいありそうなのに。こういうのって、どういう人が買うのかしら」
「さあ。なかなか面白いわよ。でもね」
 麻子が真面目な面もちになる。
「なに?」
 本をパラパラと見ていた喜久子が顔を上げた。
「私に何か隠してたことがあるでしょう」
「え?」
 何も心当たりのない喜久子は、困惑する。
 首を傾げる喜久子に、麻子は『板垣征四郎』の頁を繰って指し示す。「板垣の結婚物語」などと見出しが立ててある章で、喜久子は恥ずかしくてたまらなくなったが、麻子の示した所から読んでみた。
「板垣は生涯独身を貫くつもりであったが、陸大在学中に先輩より、大越中佐の娘を紹介された。といっても実際に会うこともなく、一年間文通をした後に、見合いもせず、喜久子夫人と婚約、結婚に至っ……」
 喜久子は勢いよく本を閉じた。大きく息を吸って逸る胸を落ち着かせる。
「……本当の話?」
 喜久子の動揺を、麻子は見逃さなかった。
「文通なんて、した覚えありません」
 そう、文通をしたことはない……少なくとも、喜久子自身は。
「でも、送られてくる手紙の内容が大越夫人にたいそう気に入られ、是非にという話になった、って……」
 麻子が続きを読み継いだ。
 喜久子はその本をどこかに投げ捨ててしまいたくなったが、ぐっとこらえた。そもそも、麻子が持ってきた一冊を葬ったところでどうにもならない。
「こういうのはあることないことをおもしろくして書くものだから」
 といいつつ、喜久子は、この話が根も葉もないところから立ったのではないことを察した。情報の出所も。

 二十五年前の夏、喜久子はその日、漠然とした不安を抱きながら、机に向かっていた。手元の勉強がはかどっていないのは自覚していた。そして、何が原因なのかも。その原因を考えないようにして、教科書を開いたが、頭には入ってこない。
「ごめんください、大沼です」
 そんな時掛かった来訪を告げる声に、喜久子は救われたように顔を上げた。
作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら