小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

この手にぬくもりを

INDEX|43ページ/72ページ|

次のページ前のページ
 

「では、ここに残って頑張ってお勉強してね」
 自分で決めたものの、これは想像以上に辛いことだ、と喜久子は思った。
 

 広島へ向かう汽車の中で、喜久子は置いてきた子供達の涙を思って気が晴れなかった。出発の朝まで大人しかった喜代子も別れる時には膝にすがって泣き、正は蒲団をかぶったままいくら呼んでも出てこなかった。子供より夫を選んだと無言の抗議を受けているようで、泣いてわがままを言われるよりよっぽど身にしみた。
 車内を挨拶回りしていた板垣が戻ってくると、喜久子は慌てて滲んだ涙を抑えた。
 師団長就任という晴れがましい門出に、湿っぽい感傷を出すべきではない。喜久子は夫を助けるために、ついていくと決めたのだ。
「今度はどのくらいでしょうか」
「普通にいったら二年ぐらいかな」
 離れるには長く、落ち着くには短い時間だ、と喜久子は思った。板垣の任務に合わせて、いつもこのぐらいの間隔で転々としてきた気がする。どこに行くにも一緒に行く、というわがままが通せるのは、これが最後だろう。
 でも、何事も無ければ、連れてきた下二人の子供は、父親との時間を与えてやれるはず。
 そんな喜久子の希望は、赴任後わずか三ヶ月余りで破れることになった。
 七月七日、北京郊外廬溝橋で、日中両軍の軍事衝突が起こる。
 ちょうど、板垣が満州の未来について、喜久子に話してくれていた時に、その報は入った。
 中国が安定するためには、まだ時間がかかる、それまでは日本が軍を派遣して、中国の治安を維持しなければならない。満州国も同様で、独り立ちするにはあと五年はかかる。それまでは今の状況が必要である、と板垣は言う。決して戦争をするためではない、とも。
 どうして中国に日本軍が行かなければならないのか、という喜久子の的はずれな質問に対して、丁寧に話してくれた答えだった。
 戦はしてはいけない、と言った矢先の戦闘発生の知らせに、板垣は厳しい顔をして師団本部に出かけていった。

 夜半過ぎ、悲壮な面持ちで帰ってきた板垣を、喜久子は神妙に出迎えた。着替えを手伝う際に、夫の肩が震えているのに気がつく。
「大丈夫ですか?」
 軍服にブラシをかけながら、喜久子は尋ねた。
「え? ああ、大丈夫だよ。現地で停戦交渉をしているようだから、拡大しないうちに済んでくれるのを祈るだけだよ」
 喜久子は手にしたブラシを取り落としそうになった。
 板垣がこういった公務に関することを口にすること自体珍しかったし、何より、その声が震えている。
 喜久子は、信じられない思いで夫を見上げることしか出来なかった。
 数日後、板垣の望んだ停戦協定が現地で調印されたが、政府は、兵力の動員を決定。
 喜久子はこの日、夫の涙を生まれて初めて見た。
 男は喜怒哀楽を表に出さないものだ、と常々言っていた板垣が、机を拳で叩き涙する姿は、喜久子の胸を塞いだ。動悸が激しくなり、喜久子は思わず胸を押さえる。
 こういう時どうすればいいのか分からない。自分の至らなさを呪い、喜久子の目からも涙がこぼれ落ちた。
「喜久子……」
 彼女の表情に気づき、板垣は顔を上げた。
「こんなはずじゃなかったんだ……」
 板垣は声を殺し、手のひらを額に当てて涙を流していた。喜久子は思わず、夫の腕に縋り付いた。
 何か、取り返しのつかないことが起こったのだ。
 絶望の中で手を取り合いながら、喜久子は心に決めた。
 何があっても、この人の味方でいよう。
 夫は、喜久子をただ一方的に守ってくれる存在ではない。彼もまた、喜久子が支えなければいけない人間なのだ。
 自分にはそんなことは出来ないと思っていた。強い人間ではないから。守ってくれる人がいないと不安で堪らないから。
 今ならその強さが持てる。
「大丈夫。私はあなたを信じていますから」

 
 中国大陸への派兵の決定を受けて、板垣率いる第五師団にも出動の命が下った。板垣は、それまでの涙を忘れたかのように、毅然とその準備にかかった。
 意に添わぬ出征なのではと、心配を隠せない喜久子に、板垣は言った。
「一個師団を率いて出征出来るなんて、千載一遇なんだよ。命令が下った以上、この上ない幸せだと思って行ってくるよ」
 見送りの際、喜久子が必死に言葉を探していると、板垣は笑って言った。
「改めて言って貰う言葉はないよ。いつも通りだ。……体に気を付けて、子供達を頼む」
「はい。お帰りを、お待ちしています」
 喜久子は、子供達と一緒になって、ホームの端で、板垣の乗った汽車が見えなくなるまで手を振った。

 その後、位置を知らせる手紙がぽつぽつと届いたのち、「明日より戦闘に参加、以後行動不明」の便りを最後に、板垣は戦場の人となった。
 喜久子は、伏せ字の新聞記事から情報を集め、負傷兵の出迎えと慰問、夫が戦死した未亡人の世話などを、師団長夫人としてを率先する毎日を過ごした。

 強くなりたいと思った。
 今なら、心配をかけたくないという、自殺したあの夫人の気持ちも分かる。
 それなら、自分は心配をさせないために強くなろう。何が起こっても生きていけるように。
 心の底では板垣の存在に支えられていることは否定できない。
 でも、今はこの世界を生き抜いてみせる。
 いつか来る、喜久子の望んだ世界のために。


 その戦いは、一年近く経ってもなお、決着が付く様子がなかった。出征当初の悲壮感は、人間の慣れという機能のせいで、だんだんと薄れてしまっていた。
 街ではよく、戦勝祝いの万歳行列が出ていたが、その影で、負傷兵や、戦死者も少なくはなかった。
 それこそ、これだけ死傷者が出ていると、夫もいつかは戦で死すべき命なのだと、覚悟をしてしまいたくなる。
 喪服を着て、髪を切った女性を見て、いちいち心を細くしていては、やっていけない時世になった。
 新聞を隅々まで読んでいても、今何が起こっていて、どうなればこの戦争が終わるのか、肝心なことは何一つ分からなかった。
 そんな六月のある日、一本の電話がかかってきた。
「板垣中将の奥様ですか」
 電話口の声は、喜久子が電話に出るなり、流れるように話し出した。
「そうですが」
「この度は、大臣ご就任おめでとうございます」
「……はい?」
 喜久子は、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。疲れているのだろう、言っていることがよく分からない。
「あの、どういったご用件でしょうか」
「ですから、陸軍大臣に抜擢された感想などを是非」
「大臣って、どういう事ですか」
 その時、玄関を叩く音がした。喜久子は慌てて返事をする。
「お客様がいらっしゃったので、失礼致します」
と言って、訳の分からない電話は受話器を置いてしまう。
 しかし、玄関の戸を開けると、またしても、
「陸相ご就任おめでとうございます」
と叫ぶ記者が立っていて、喜久子は面食らった。
「あの、何かあったんですか」
「何って奥様、板垣閣下が大臣になられたんですよ!」
 てっきり新手の冗談か何かだと思った。
 よく、大臣になった人間の人となりを新聞の二面三面を割いて紹介していることは知っていたが、自分のところに来るわけがない。
「何かの間違いじゃないんでしょうか……」

作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら