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この手にぬくもりを

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この世界で




 板垣が、本当の意味で、満州事変から凱旋したのは、昭和八年になってからだった。関東軍司令部から、参謀本部附に転じ、一家は約四年の旅順生活を終え、東京に戻ることとなった。
 色々あったが、結果的には、夫婦の絆を強めることとなり、無事一家揃って、内地への船に乗ることが出来た。
 が、その後も必然板垣の任務は大陸関係のものが多く、せっかく東京に居を構えても、彼は支那への出張続きだった。
 そのうち、夏になると、世界各国の視察を命ぜられたと言って、大きな荷物を持ち、世界横断とも言える出張に出かけてしまった。
 今度はどこに行くのかと、尋ねた際に、夫の口から「倫敦」「巴里」などという地名が飛び出した時には、多少の違和感を抱かずにはいられなかった。
 噂によれば、今回の出張は満州事変の立役者である板垣への労いの意味を込めてのものらしい。任務としても「外遊」という程度で、時間の余裕もあるらしく、旅先のあちこちから、写真入りの手紙が届いた。
 各地での行動が事細かに綴られた板垣からの手紙を読むのは、なかなか楽しかった。写真では景色の色彩が分からないのが残念だ。
「つまりは、ご褒美に世界一周旅行をさせて貰っているようなものなわけだ」
 赴任先から一時帰京した兼二が、写真の数々を眺めながら言った。
「なんだか嫌な言い方ね。遊びに行っているみたいじゃない」
 喜久子が口をとがらせる。兼二は肩をすくめた。
「ヴェニスでゴンドラに乗るのが、何かの任務とは、僕には思えないけどな」
「それは観光でしょ」
「だから観光なんだよ、全部」
 兼二が、わざと大まじめに答える。
「何が言いたいの」
 喜久子は、冷ややかに弟を一瞥した。
「姉さん、冷たいじゃないか。淋しいと思ってわざわざ会いに来たのに。あ、ミュンヘンの麦酒だって、いいなあ」
「兼二!」
 喜久子は、弟の手から写真の束を取り上げる。
「本当なの、ご褒美って……あの人、何かすごいことをしたの?」
「今さら、何を言ってるんだよ。まあ、いろいろあったらしいけど、結局満州の問題を解決したんだから」
「そうなの」
 褒賞や昇進にはあまり関心がない喜久子は、のん気に相づちをうつ。
「姉さん、もう少し自覚した方が良いよ。もう義兄さんは閣下なんだよ? 中将になって師団長、今の調子だと、きっと大将にまでなるよ」
 その言葉を聞いて、喜久子の表情が一瞬陰った。
「そんなにならなくてもいいのよ」
「姉さんは無欲だなあ。まあ、そういう人の方がかえって上まで行くものなんだろうけど」
「兼二は征四郎さんに出世して欲しいのね」
「まあね。姉さんのためじゃないけどね」
 念を押すように言う弟に、喜久子は悪戯っぽく笑った。
「いいのよ、私はそんなことは望んでいませんから」
 昇進も褒賞もいらない。でも、叶わない望みならたくさんある。たとえば、この板垣の視察旅行。手紙を読みながら、写真を眺めながら「一緒に行けたら」と思ってしまう自分がいる。
 数年前に、宮様が夫婦で欧州を外遊した時に、誰もが憧れたはずだ。しかし、一介の軍人夫婦に、そんな贅沢な旅行が叶うはずもない。
 他にも、もっと家にいて欲しいとか、日曜ぐらいは来客もなくゆっくり過ごして欲しいとか、挙げればきりがない。そのどれもが、たわいのないことのように思えるのに、実際には難しい。


 喜久子の望みは叶えられることもなく、海外視察を終えた板垣は、またしても関東軍に配属され、満州に渡っていった。
 最初から分かっていれば、わざわざ戻って来ることもなかったのに、という思いを飲み込んで、喜久子は夫を送り出した。結局、東京に移ってから、一家全員が揃った日は、数えるほどしか無かったことになる。
 長男の裕は十二歳になり、子供達の進学のことも考えて、東京に基盤を置くことに決めたものの、喜久子にとっては寂しい日々が続いた。
 それでも、戦争中ではないから、「寂しい」と思うだけで済んでいた。誰も死なないし、死に場所を求めることもない。
 そう安心していた矢先に起きたのが、「相沢事件」だった。
 昭和十年八月十二日白昼、軍務局長永田鉄山が、陸軍省内の軍務局長室で、相沢三郎中佐に襲われ斬殺された。
 そんなことまで起こりうる世界にいるのだとしたら、家族の気持ちや願いなど、全て、理不尽な弾丸や、刀でいつでも引き裂かれてしまうだろう。
 一時帰国した夫と共に葬儀に参列したが、板垣は終始無言だった。
「これも、軍人の覚悟のうちですか」
 帰り道、板垣の背中に、喜久子が声を投げかけた。
 板垣は「そうだね」とだけ言って、黙々と歩き続けた。
 恵まれた地位的環境が、心底怖いと思ったのは、この時からだったかもしれない。


 その後板垣は、数年を満州で過ごし中将に進級、兼二の予想通り、師団長となった。赴任先は広島の第五師団。昭和十二年三月のことだった。
 板垣からの便りで広島行きを知った喜久子は、とっさに引っ越しのことを考えた。しかし、すぐに現実を思い返してため息をつく。
 板垣の再度の満州赴任に、同行しないと決めたことを思い出す。子供達のためにも東京に居を定めよう、と考えたのだった。
 しかしいざ師団長となると、喜久子の中にはついていきたいという気持ちがわいてくる。
 子供達に父の広島赴任を知らせると、自分たちは一緒に行くなど考えてもいないようで、平然としたものだった。
 子供達には、父の不在が当たり前になっている。家にいるときは慕いもするが、喜久子と違って、いないときに恋しがるようなことはほとんどない。無理もないことだが、喜久子にはこの温度差がたまらなくなることがあった。
 板垣が満州から戻って来た後、喜久子は相談してみた。
「この家は母に任せて、私は広島にご一緒することは出来ないでしょうか」
 喜代子と正は、この三月に小学校を卒業して、春からの進学先も決まっている。広島に移転するなどとてもさせられない。中学生の裕も東京にとどめなくてはいけない。
 板垣自身も単身で赴くつもりだったのだろう、少し目を見張って喜久子を見た。
「君は子供達と一緒にいるべきだと思うよ、母親なのだから」
 板垣がそう言うのは、喜久子にも分かっていた。自分が妻であるよりも、今は母親であるべきなのも。それでも、この時は引き下がれなかった。
「では、征夫と美津子は連れて行きます。お願いします」
 頭を下げる喜久子に、板垣は不承不承ながらも了解をくれた。
「わかった。でも裕はともかく喜代子と正は大丈夫かな」
 目を輝かせて感謝の言葉を述べようとした喜久子は、板垣に指摘され、あっと声を上げた。

 十五歳になる裕はすんなりと頷いたが、残る二人はそうはいかなかった。喜代子は話を聞いて従順に頷いたものの、不安な表情を隠さなかったし、正に至っては散々にごね、癇癪を起こされて喜久子の決心も鈍りかけた。
 しかしここで折れるわけにはいかない。喜久子は子供達に侘びながらも、覚悟を決めていた。
「正はお父様のように軍人になるのでしょう」
「……」
「そのために受験勉強をして中学に入ったのでしょう」
「……」
 正は押し黙ったまま頷いた。喜久子は少しほっとして、息子の涙を拭いてやる。
作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら