この手にぬくもりを
「そうしたら、急に納得できなくなってしまいました。もちろん、そんなに単純なことじゃないんだと思う。お父さま自身も全身に銃弾を浴びてて、きっと、自決なんかしなくても、近いうちに死んでしまう傷だったのかもしれない。ひどい怪我で、もう動けなかったのかもしれない。とても、苦しかったのかもしれない。でも、私は」
父の最期の状況、立場はすでに聞いたことがある。父の最期を看取ったという兵士が、家に来て母に話をした。その場面が本になったのも見たことがある。しかし、喜久子には想像も出来ない世界だった。話を聞いても、文章を読んでも、何が起こっているのかは理解できても、その場面の情景が頭に浮かんでこない。以前、現地に行ってみたときも、そうだった。だからこそ、余計納得できない。
「お父さまに、生きて、帰ってきて欲しかった」
そこまで言うと、目から涙が溢れてきた。零れた涙はそのまま顔の横を伝わって耳に入っていく。不快だったが、拭う気にはならなかった。
「全身に穴が空いてても、もう軍人としてお仕事が出来るような身体じゃなくても、それでも私は、帰ってきて欲しかった。自分の手で、死のうとするなんて、そんなことして欲しくなかっ……」
「もういい」
いつの間にか堅く握りしめていた右手が、不意に優しく包まれた。それでますます、涙が止まらなくなってしまう。
「だって、ひどいわ。最初から、死ぬつもりで『行ってきます』って張り切って行くなんて。私たちは家で待っていたのに。どんなにわずかな可能性でも、自分から消したりして欲しくなかった……」
涙声で話す喜久子は、それでも天井から目を離さなかった。板垣も真っ直ぐ天井を見ていた。
「今までずっと、そんなことを一人で抱えてたのか」
板垣の問いに喜久子は頷いた。誰にも言ったことはなかった。喜久子自身、ここまで具体的に思ったのは初めてだった。事実を知ったときも、誰にも何も言わなかった。言えなかった、家の中の誰にも。
「覚悟が出来てないって言われるでしょう。みんな乗り越えて生きているのに、私だけこんなことで泣いたり出来なかった」
だから本当は、夫にも言ってはいけないはずだった。それは、「板垣征四郎の妻」としてふさわしくないから。
「戦争なんて、起こらなければいいのに」
そうすれば、こんなことを思い出さずにすんだ。
「……ごめん」
「どうして謝るんですか?」
喜久子はそっと、板垣の手を握り返した。
「私の方こそごめんなさい。わがままなのは分かっているんです。でも、私がこう思っていることも、知っていて欲しい」
すんなりと、自然にそんな言葉が出たことに、喜久子は自分でも驚いていた。それはいつも、何を言おう、どれを言おうと考えている台詞などよりも、ずっと満足のいくものだった。
「じゃあ、約束しよう」
板垣の言葉に、喜久子は初めて彼の方を向いた。灯りは消してあるから、細かい表情までは分からない。彼は、真っ直ぐ天井を見たまま、言った。
「喜久子の気持ちは分かるよ。僕は、お義父さんは立派だったと思うし、自分も同じ立場だったら同じことをしたと思う。でも、出かけるときは、いつも、帰ってくるつもりで『行ってくる』と言っている。ここに帰って来たいと思っている。だから、君を悲しませるようなことはしないよ」
「本当に?」
「ああ」
本当は、絶対と言えることではなかった。喜久子もそれは分かっていた。これから何が起こるかわからない、本当は何も保証など出来ない。もう戦争が起こらない、というわけではないのだ。大切なのは、約束してくれた、という事実だった。
少なくとも、帰って来たい、行きたいというのは彼の本心だ。喜久子も、それは強く感じることができた。
喜久子は、身を蒲団から半分起こし、涙で濡れた顔を一度袖で拭ってから、板垣をじっと見る。暗闇に慣れてきた目に、彼が少し、でもとても優しく笑ったのが見えた。喜久子は、板垣に腕を取られ引き寄せられるまま、彼の胸に寄り添った。
喜久子は、ただ嬉しかった。心の中の不安が、その約束だけで、どんどん消えていくのが分かった。板垣が、長年彼女の胸の底に刻まれたままだった傷を、優しく癒やしてくれる。彼にとっては、たわいのない約束事かもしれなかった。だが、そのささやかなことに幸せを感じられる瞬間が、喜久子は好きだった。この人と結婚してよかったと、そう思える。
少しは、幸せになれただろうか。
ふと、ぬくもりの中で、そう思った。彼と結婚すると決まったときから、喜久子はずっとそれだけを望んできたのだ。
それはいつも、環境や、些細なことで妨げられてきたように思う。でも、自分たちは確実に「幸せ」へ向かっているのだと、信じていた。
それは、始まりでも終わりでもなく、ただの一つの通過点のはずだった。
しかしずっと後になって、喜久子はこの夜の約束を、後悔の念で振り返ることになる。
喜久子が終わったと思っていた「満州事変」、板垣が尽力して建国した「満州国」をきっかけに、時勢は大きく歪み始めた。