この手にぬくもりを
しかし、変に起こされてしまったので、なかなか寝付けなかった。板垣も同じらしい。何度か寝返りをうっていると、不意に声をかけられた。
「少し出ようか」
彼の言う意味が咄嗟には理解できないでいると、板垣は蒲団から抜け出して、縁側に出た。障子の向こうは、思ったよりずっと明るい。月のせいだろう。
居待月、とでもいっただろうか、満月を過ぎた月が、高く上がっている。
「良いところなんだけどなあ」
一つ大きく伸びをして板垣が言った。
西は布引山地、東は伊勢湾と、久居は風光明媚な町だった。海と山に近いのが、喜久子はとても気に入っていた。
「奉天に行くこと、知っているだろう」
喜久子は黙って頷いた。何も言わない。早く言って欲しかったとか、あなたの口から聞きたかったとか、そんなことは、言えない。
「こんなことばかりで、落ち着ける場所もなくて喜久子には……」
「いいえ!」
喜久子は慌てて彼の言葉を遮った。次の台詞は分かっている。「すまない」だ。喜久子は、夫の詫びの言葉を聞くのが嫌いだった。
自分の方が、彼に詫びなければいけないことがたくさんあると、分かっているから。それは愚かなわがままであったり、くだらない嫉妬だったりすることも、自覚している。
板垣は少し首を傾けて、彼女の方を見る。途端に、喜久子は言葉に詰まった。懸命に言葉を探す。
「あの、前に言いましたよね。私は嬉しいんです。色々なところに行けて」
こんな生活、考えたこともなかった。どこにでも連れて行ってくれることに、感謝しなければならない。
「今度は奉天でしょう。私、ずっと行ってみたかったんです」
そう言った喜久子を、板垣は意外そうに見つめ返した。
「行ってみたかった?」
夫の問い返しに、喜久子は不安を覚えた。恐る恐る、もう一度確認を取る。
「はい。あの……行ってもいいんですよね」
「勿論だよ。一緒に行こう」
それは、ささやかな約束だった。
「何処に」一緒に行くかは、二人とも何も言わなかった。ただ、眠りにつく前、喜久子は夫の声を聞いた。
「喜久子は、行きたくないのだと思っていたよ」
「どうして?」
半分まどろみながら、喜久子は問う。
「どうしてだろう。喜久子は、お父さんの話をすると、いつも変な顔をするからかな」
今、板垣はなんと言ったろう。何か、とても大切なことが判明したような気がする。しかし、眠気に支配された頭では、それ以上は無理だった。
「え、何……ですか?」
辛うじてそれだけ声を紡ぎ出して、喜久子は眠りに落ちた。
「いや。……おやすみ」
荷物を抱え、子供の手を引き、赤子を背負った家族の群れが、汽車に乗り込んでゆく。
まるで出稼ぎの移民のようだ、と喜久子は思った。
神戸港で船に乗り込む際に、その印象はいっそう強くなった。
この満州行きを前に、方々から水天宮のお守りが送られてきた。母から送られたそれを懐に、船に乗り込んだ。
船旅は好きだった。水平線と、海面を照らす陽。
海上での寝起きに慣れてきた頃、たどり着くのは異国。自分が、滅多にない経験をしているのだ、と思う瞬間だ。
しかし、板垣と「一緒に行く」わけではなかった。今回、板垣は連隊とともに喜久子達とは別経路で、満州に渡ることになっていた。合流するのは奉天に着いてからである。
いつかまた、二人で海を渡れる日が来るだろうか。
ふと、そんなことを考えてから、喜久子は一人で苦笑した。
二人で船旅なんて、夢だともいえない。果てしない憧れだ。こうして同じ場所についてゆけるだけで、満足しなくては。
今回は特にそう思っていた。叶わないと思っていたことが一つ、実現する。決して想像がつかなかった父の最期の場所に立つことができる。
満州、奉天。この地名に、父の最期の場所だという思いだけを抱いて、喜久子は海を渡った。
支那、満州、大陸。そんな言葉に、胸が裂けんばかりの感傷を抱くようになるのは、ずっと先のことである。
大陸の地を踏みしめて立つ。
この広い大地と、限りない空は、決して覆ったりしない。
この時、喜久子はそう信じていた。