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この手にぬくもりを

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 軍人となったら、せめて大佐になって連隊長を勤める、というのが多くの将校達の目標であるという。
 昭和三年の春、板垣はそこに到達した。もっとも、陸軍大学校出の者には、通過点に過ぎないのだが、喜久子には、ほっと一息付ける場所まで来た、という感慨があった。
 夫の昇進にはあまり関心がなかったが、ここまでは、と考えることはあった。自分の内助の功が働いたためとは思っていないが、やはり周囲の視点は、そこに至るらしい。各種の連隊長就任祝いの言葉は、夫だけでなく喜久子の功労にも触れていた。
 赴任先は、三重県の津歩兵第三十三連隊である。板垣は、昨年五月の山東出兵以来の帰国だった。
 出征する前、喜久子が名付けを頼んだ三男の征夫が、既に八ヶ月になっていた。

 津の町に着いてまず感じたのは、潮の香りだった。盛りを過ぎた八重桜が町を彩っている。
 喜久子は、なぜ夫がこの地の連隊長になったのか知る由もなかった。
 それよりも、なぜ自分は、初めての地に一人で訪れることになるのだろうと、寂しさが胸をよぎった。正確には、子供を抱えての旅だったから、いないのは夫だけだった。
 以前、北京まで行ったことを思えば、今更不安を覚えるようなことでもない。喜久子は、宿に荷物を置き、子供達を連れ立って海岸に出かけた。
 海辺は人影もまばらだった。伊勢湾を囲む岬の影が、春霞の向こうに漂っているのが見えた。
 子供達は、寄せては返す波が気になるらしい。おそるおそる、近づいている。喜代子と正は、互いの手をしっかりと握っていた。
 しかし、それも初めのうちだけで、子供達はすっかり波打ち際遊びに夢中になってしまい、喜久子は、傾きかけた陽を眺めやった。
「もう帰りますよ」
と、今日何度目かの呼びかけをすると、不満の声が三つ重なって返ってきた。喜久子がもう一度何か言おうとすると、裕があっと声を上げた。
「おとうさま」
「そうよ、夜にはお父様が迎えに来てくださるのだから、お部屋に戻っていないと……」
 裕が指さす先に、何気なく目をやった瞬間、喜久子はどきりとした。
 見慣れた背格好の男が、防波堤の上から帽子を振っている。特に、何があったというわけでもない。ただ、その姿を見るのが約一年ぶりだということに気が付いて、喜久子は胸が詰まった。
 子供達が、あれほど夢中になっていた波遊びを打ち捨てて、走り出す。喜久子も、ゆっくりと後に続いた。
 長いこと人知れず背負っていた重荷を、こっそり下ろしながら。

 一家の住まいは津市から少し内陸に入った久居町にあった。連隊のすぐ側である。
 連隊の近くに家があるといっても、板垣は演習があれば野営をして帰ってこない。東京で大演習があると言えば長く出張したまま、帰宅をすればお客様続き、と、どこへ行っても生活はそう変わる物ではなかった。
 子供達の遊びが、もっぱら連隊長ごっこに変わったぐらいである。今日も、庭先で連隊長役を争う声が聞こえてきた。
 徐々に、喜久子にもこの連隊に赴任した理由と意味が分かってきた。
 歩兵第三十三連隊は、来年度より奉天駐剳勤務が予定されていること。その準備にいわゆる「中国通」である板垣が連隊長に必要であったこと。
「なにより、連隊長殿ご自身が希望なさったのだと思っていました」
 板垣の仕事の手伝いで来ていた高崎少尉がそう言った。彼は連隊旗手であり、板垣に見込まれてか、よく仕事を言いつけられていた。来訪時に食事の世話をしているうちに、喜久子は自然と顔見知りになった。
「本当に、いつも大陸関係一点張りで」
 喜久子が苦笑すると、高崎は軽く首を横に振った。
「いえ、それだけではなくてですね、歩三三は、軍縮前は守山で、歩六と兄弟連隊だったんですよ」
「奉天会戦の……」
 喜久子の表情が一瞬こわばった。それには気付かずに、高崎は頷いた。
「歩三三の吉岡大佐、歩六の大越中佐と言えば、この辺りでは未だに有名なんですよ。連隊長殿は大越中佐を殊の外尊敬しておられるようでしたから」
 喜久子は曖昧に笑った。どうやら、喜久子と大越兼吉の関係については、それほど有名でもないらしい。
 それにしてもうっかりしていた。
 奉天行きばかりが頭にあって、吉岡友愛大佐や大越兼吉との関係を、失念していた。
 奉天行き、父、歩兵三三連隊。どうして夫は何も話してくれないのだろう。どれ一つ、板垣本人から聞いていない。
 ふと、喜久子の胸に不安がよぎった。
「渡満のご予定、いつでしたかしら」
「来年の春ですよ」
 ようやく慣れてきたところだが、ここにも一年足らずしかいないことになるようだった。
 そして、次の行き先は、満州の奉天。
 妙な気持ちだった。そこは、戦場であり、父が望んで帰らぬことを選んだ場所の代名詞だと思っていた。
 無邪気に北京に付いていった時とは、違う。そんな予感がしていた。


 その夜、板垣は珍しく帰りが早かった。
 とはいっても、野営帰りのぼろぼろの姿で、髭は伸び放題、顔には疲れが見えた。本人は普通に振る舞っているが、喜久子は痛々しくて仕方がなかった。
 渡満準備は、第一の仕事だったが、この年は他にも特別な行事が控えており、板垣は多忙を極めていた。
 秋には、即位御大礼伊勢神宮御親閲が予定されており、伊勢の久居にある歩三三連隊が、その儀に参加するという光栄を担うことになっている。連隊長である板垣を筆頭に、連隊はその準備に余念がなかった。
 喜久子は、光栄な任に着く夫を誇らしく思うよりも、「無事勤められるのだろうか」という心配をしてしまう。夫の能力に疑問があるわけではない。しかし、世の中には本人の努力だけではどうにもならないことだって、起こりうるのだ。
 それが、もし儀仗の最中に起こったりでもしたら。
 または、十二月に行われるという、観兵式で何かあったら。
 気にしすぎだ、と自分でも思う。たまたま読んだ新聞記事がいけなかったのだ。演習中に、天皇陛下に直訴を試みた兵の所属部隊の将校がお咎めを受けたとか、どこの連隊が脱走兵を出したとか。
 伊勢に来て四ヶ月、喜久子が慣れないことが一つだけある。深夜に鳴る電話の呼び鈴である。そう頻繁にあるものではなかったが、ここに来た当初に苦い経験があった。
 突然の電話の音に驚いているうちに、板垣が素早く電話口に出て、支度もそこそこに出かけてしまったのだ。残された方は何がなにやらさっぱりで、連隊の方からは遠く電鈴の音が響いてきて、その晩は眠れなかった。
 今思えば、あれが脱走兵の知らせだったのではないかと思う。
 長く軍人の妻をやっていると、誰にも教えてもらってはいないけれど分かることも、多々あるのだ。
 そして、早めに床に入ったその深夜、やはり呼び鈴が鳴った。喜久子は反射的に起きあがる。
 蒲団から出ようとした喜久子を、板垣の腕が制した。喜久子が躊躇していると、板垣が電話を取りに行く。
 しばらく電話台から話し声が聞こえていた。目をこらして時計を見ると、午前二時近い。随分と蒸し暑く、寝苦しい夜だった。
 板垣が寝室に戻って来る。喜久子は腰を浮かせたが、夫は蚊帳をくぐって床に戻ろうとする。
「何でもない。大丈夫だよ」
 そう言うので、喜久子も横になった。
作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら