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この手にぬくもりを

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 喜久子は、静かにその傍らに座った。子供達を見守り、時々声をかける。
 三人の子供達も、ようやく、目も手も離せない赤ん坊ではなくなり、最近はだいぶ余裕がもてるようになっていた。振り返れば、あっという間のような、長かったような不思議な時間だ。ずっと子供の世話に追われてきたし、これからもそうだろう。
「お願いがあるんです」
 喜久子は、やや目立ち始めたお腹に手をあてながら、言った。
「なんだい、改まって」
 板垣が、本を閉じて体を起こした。
「もし、この子が男の子だったら……あなたの持ち字を頂けませんか」
「僕の持ち字といってもなあ」
 板垣は頭をかいた。
「付けた親父によれば、征は、征韓論の征だそうだよ……当時の実情だけど、あまりいい漢字ではないね」
「私は、この字好きですよ。征く、という意味でしょう」
 字引を取りに行こうと腰を上げた板垣の動作が、一瞬止まった。喜久子は、両手の指を組み合わせながら、続けた。
「正しいという字が入っていますもの、悪い意味ではないと思います」
 「征」は、確かに軍事的な侵攻をも意味するが、「侵」「伐」とは異なる意味を持つ。「侵」は、いかなる大義もなく侵犯することであり、「伐」は対等な立場間で正々堂々と攻撃すること。「征」は、正義の行われている国が無道の国を正すために攻撃することだという。
「ああ、確かにそうだね。正しきを行く、か」
「じゃあ、よろしいですか?」
 喜久子は顔を輝かせた。思い切って言ってみてよかった、と思った。
「ああ、何かいいのを考えておくよ」
「ありがとうございます」 

 あの時は考えもしていなかったが、それは、出征の「征」なのだ。「侵」であろうと「征」であろうと、軍隊が戦うことには変わりがない。軍人が戦争に行くことには違いがないのだ。征く人、で旅人を意味するという。帰ってこないかもしれない、遠い場所まで行く人、という意味だ。
 不安でたまらないのは、自分がいかに夫を頼りにしているか、ということを示している。
 もし彼がいなくなったら、自分は生きていけるだろうか。母がやってのけたようなことは、自分には出来そうもなかった。誰かが大丈夫だよと言ってくれなければ、何も出来ない。何も分からない。最後には夫が助けてくれると思うから、耐えられるのだ。
 だから、誰かに愛されたいと思っていた。そういう未熟な自分を自覚してしまう。
 こんなことを考えていると分かったら、きっと板垣は失望するだろう。不安の半分は、そんな自分が露呈することへの恐怖かもしれなかった。
 いつも、側にいて欲しいなんて望まない。でも、どこにいても、ずっと、一緒だと言って欲しい。
 実際には絶対に言えないようなことを、喜久子は切に望んだ。
 気が付けば、結婚してから十年が経っていた。
 一人になりたいと、蒲団をかぶって嘆いたのが、随分遠いことのように思えた。


作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら