小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

この手にぬくもりを

INDEX|30ページ/72ページ|

次のページ前のページ
 


 東京に戻った板垣は、参謀本部附となり、陸軍大学の教官職に就いた。
 住居は四谷の市街地にあった。板垣の通勤にも、生活にも便利な場所だったが、すぐ近くに酒屋もあり肴屋もありで、喜久子は家計のやりくりに難儀した。
 板垣は宴会があればいつも殿をつとめるらしく、午前様は珍しいことではなかった。さらに、客を招くのも好きで、相手次第では飲み明かすことも少なくない。
 その際のお酒代も、確かに喜久子を悩ませていた。しかし、それ以上に、夫の時間に従うことにも、骨を折った。
 板垣は風呂好きだった。しかし、帰りの時間が一定せず、風呂を用意して待っていても、そのまま深夜になってしまうことが多かった。その度に、待っていた喜久子は入りそびれることになる。結果、板垣は朝風呂に入るようになった。喜久子は、風呂を焚くのはともかく、朝っぱらから、風呂に入る気分にはなれなかった。
「喜久子、石鹸」
 風呂の中から響く夫の声に、喜久子は首をかしげた。
「まだ残っていたでしょう」
 昨夜、自分が使った時の記憶で返答すると、板垣は、
「だからそれが無くなったんだよ」
と言う。
 腑に落ちなかったが、喜久子も別にケチケチしたいわけではないので、おとなしく新しい石鹸を出した。それを手に、たまには「お背中流しましょうか」などと言ってみようかと思いながら、風呂場の戸に手をかける。こういうのも、朝では全く風情が無い。というより、何かが違う。
 しかし、戸を開けた瞬間、喜久子は咄嗟に何も言えなかった。
「ああ、ありがとう」
 呆然とした喜久子の手から、板垣は石鹸を受け取った。彼の手にたっぷり付いた泡が、喜久子の手にも残った。
 手だけではない。板垣は、体中石鹸の泡に埋まっていた。
 それは未知の世界だった。喜久子は、石鹸とはこれほどまで泡立てて使う物だったのか、と衝撃を受けた。それは、今までの自分の常識が覆されたような、複雑な気持ちだった。がっかりと感動が入り交じっている。
「どうかしたのか」
 板垣が不審気に声をかけた。我に返って、喜久子は慌てて風呂場の戸を閉めた。
「なんでもありません!」

 その夜、喜久子は、子供を風呂に入れる際に、あの泡立てを再現してみようとした。しばらく石鹸と手ぬぐいと格闘したが、一向にあの体が埋まるような泡は出てこない。諦めていつもの泡立ちで使い始める。ただ、石鹸だけは確実にすり減っていた。
 喜久子ががっかりして裕を洗い始めると、
「おとうさまとあわがちがう」
と言う。
「裕はお父様の泡のほうが好き?」
 さりげなく聞いてみると、裕は少し考えてから答えた。
「おとうさまはすき、あわはあんまりすきじゃないの」
「そうなの」
 おおかた、面白がって遊んで目か口にでも入って痛い目を見たのだろう、裕はぎゅっと目をつぶった。
 結局、その後、喜久子が泡立ての秘訣を教えてもらうことはなかった。ずっと後、石鹸が贅沢に使えなくなった折に、ふとあの時の泡のことを思い出すのだった。

 板垣が念入りなのは泡だけではなかった。頭はふんだんな泡で洗い清めた後、丹念にローションを振りかけ、これまた念入りにブラシで摩擦する。
 あまりに熱心なので、喜久子は呆れてこう言ったことがある。
「あまりやりすぎると、かえって禿げますよ。ほどほどにしてください」
「何を言ってるんだ。刺激によって毛が生えるんだよ」
 聞いたこともない、という言葉は夫の前に飲み込んだ。もともと、出会ったときから頭髪に関しては豊かとは言い難かった。夫の家系の男性を思い浮かべるに言わずもがな、であった。
 喜久子は納得がいかなかったが、どちらが正しいかは時間が暴いてくれるであろうこの勝負を、少し楽しんでもいた。
 その時に至るまでに何かが起こるなどと言うことは、想像していなかったし、したとしても想像がつかなかっただろう。
 不思議と、自信があった頃だった。
 自分達に何か特別な不幸がおこるはずなど、無いと思っていた。

 昭和二年に入って、喜久子が四人目の子供を妊娠したのを機に、一家は引っ越しを決めた。四谷の家は、生活には便利だったが、付近に子供の遊ぶ場所がなく、子供を育てる上であまり良い環境とはいえなかった。周囲に家を建てることを勧められたこともあったが、今回も借家住まいである。国に身を捧げた者が、家など持ってはいけない、というのが板垣の持論であった。
 喜久子も持ち家に執着はなかった。どうせ転任続きで同じところに長くは住めないのだから、むしろ、家族の都合や環境に併せて移転できる分、借家の方が勝手が良い。
 郊外の新借家は、まだ新しく、周りは畑が広がり、空き地が目立っていた。そして、とても日当たりがよかった。鴨居の上にも障子が設けてあり、室内が随分と明るい。
「引っ越してよかったなあ」
 とにこやかにいう板垣は、以前より早く家を出なくてはならないことも、苦になっていないようだった。喜久子も、気にしていないように努めた。本当に、一度慣れてしまえば早起きは気にならなかったこともあるが、何より夫に申し訳なさそうな顔をされるのが嫌いなのだった。彼のためならどんなことでも厭わない、そんな自分でいたかった。


 五月、蒋介石率いる、中国国民革命軍の北伐に危機を感じた日本政府は、在留邦人の生命、財産の保護を理由に、山東出兵を決めた。満州に駐在中の歩兵第三十三旅団は、五月末に青島に上陸。その部隊に東京から幕僚団を派遣することになった。その幕僚団を率いる任を受けたのは、参謀本部員であった板垣征四郎中佐であった。
 喜久子にとっては、寝耳に水の夫の「出征」だった。必死で冷静さを保とうとしていたが、実際は気が動転していた。そのため、どうやって夫を見送ったのかさえよく覚えていない。
 板垣が東京を発った日の夜、並んで眠る子供たちを見ていたら、急に恐ろしくなった。夫の不在は、初めてのことではない。そう考えようとしても、今までのような「赴任」や「出張」ではなく、「出征」なのだとつい考えてしまう。
 それは、喜久子のなかで、全く違う意味を持っていた。出征した夫の留守は、喜久子がすべてをかけて守らなければならないものだった。そして、帰ってこないかもしれないことを想定しろと、その言葉が示している。
 頭の中を回るその二文字を振り払うように、喜久子は頭を振った。
 これは戦争ではない。大陸にいる日本人の安全を確保するための出兵だ。実際は、戦闘など起こったりはしないはずだ。
 不安を沈めようと、机に向かった。しかし、筆を滑らせて紡ぎ出されるのは、不安な自分ばかりだった。
  寝ならべる子等をば見つつ安からず留守守るわれの責任をおもふに
 きっとこの歌には、「夫の出征」という状況説明が付く。
 今眠っている子供だけではない。夏にはもう一人生まれる。その時までに、板垣が帰ってくることは、期待出来そうになかった。
 こんなことならば、我が儘を言うのではなかった。喜久子は、つい先日の夫との会話を思い出していた。

 その休日は、からりと晴れて気持ちがよかった。子供達は庭に出て土いじりに余念が無く、板垣はそれを眺めながら、縁側で本を開いていた。
作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら