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この手にぬくもりを

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 北京はあっという間に夏になった。
 本庄繁駐在武官は、第一印象のごとく、穏やかで奥ゆかしい紳士であった。家族を連れず、単身北京に渡って来ていたが、武官達の家族ぐるみのつき合いにもよく顔を出して、人の輪にとけ込んでいた。休日には、部下の子供達をつれて、よく散策に出かける。板垣家の子供達はまだ幼く、預けることはなかったが、喜久子は、休日に本庄に連れられて出かけるという隣家の子供達をよく見送った。
 子供達だけではない。喜久子ら妻達を活動写真の上映会に招待したり、芝居に連れ出してくれたりもした。忠実で謙虚で、よく気がつく男であった。
 夫の立場上、様々な人間と接する機会が増えたが、本庄はその中でも、好感の持てる人物であった。

 八月の終わり頃、喜久子に友人の麻子から便りが届いた。夫が広東駐在勤務になり、着いていくか迷っているという内容だった。
 何を迷うのだろう、と喜久子は思ったが、反面「何が何でもついていく」と思っている自分の方が特異なのだという自覚もあった。返事代わりに近況報告を書いている時、ふと頭に引っかかることがあった。
 しばらく忘れていた、本庄への既視感が、麻子の存在とつながりそうなのだ。つながりそうで、つながらなくて、もどかしい。
 麻子の父は中国通として有名な軍人で、板垣達からも一目置かれている存在だった。その中国通網によって、麻子の結婚相手は定められたのだという。彼女の家を訪れた時、出入りする陸軍将校を目にすることがあった。その中の一人だろうか。思い出せない。麻子の父の豪快な姿なら、はっきりと覚えているのだが。
 その時は、特に気にすることでもないと思った。本庄閣下は好人物、だから親近感から既視感を覚えるのだ。喜久子はそれ以上考えるのをやめた。

 夏が終わるともつかないまま、秋が来た。
 中秋の名月が空にきれいに上がった日に、鈴木家と共に月見の宴を催した。本庄少将や、公使代理も招いて、宴は和やかに進行した。
 来客に興奮した子供達をようやく寝かしつけ、ふと窓の外を見上げると、月がだいぶ高く上がっている。宴の席に戻る途中でも、廊下の窓からついつい見上げてしまうほど、月は清かで美しかった。
 喜久子は、遠く宴会の談笑を聞きながら、二人で月見をしたら、さぞ抒情的だろう、と、ありもしないことを想像してみる。
 いつ見ても、同じ表情の月。ここが異国であることを、忘れそうになる。
「三笠の山に出でし月かも」
 足を止めて月を見つめ、頭に浮かんだ有名な歌を、口の中で転がしてみる。
「ああ、まさにそんな風情ですね」
「!」
 不意に声がかかったので、喜久子は飛び上がらんばかりに驚いた。
「……本庄さま」
「驚かせてしまったようで、申し訳ない」
 本庄の丁寧な詫びに、喜久子は慌てて頭を下げた。
「とんでもございません」
「奥様は、ご自分でも歌を詠まれるとか」
「いえ、ほんの筆の荒びで。大したものではないんです」
 実際、作る歌は生活臭のにじみ出ている物ばかりで、昔の歌人のような風流なものを読むことになど及んでいない。
 それきり、会話が続かなかった。
 深い意味などない。本庄は席を立って手水に行く途中なのだろうし、すれ違いざまに声を掛け合っただけだ。ただ、少し望んでいた「二人で月見」の状況には相手違いだ、ふと思ってしまっただけで。
「以前にどこかでお会いしましたか?」
 振り返って、そう言う本庄の言葉が、可笑しいほどに喜久子の胸を揺らした。それは、言葉だけなら幻想的な響きだった。運命の恋人が登場する、恋愛小説の一場面のような。
 喜久子は必死に記憶をたどった。なんとしても、淀みなく「はい」と答えなければならない。今までの不思議な既視感を、当然の記憶にしてしまわなければならなかった。ここで、「いいえ」と答えたら、何か運命があるようではないか。そんなことを考えるのは馬鹿げているのだが、喜久子の空想は未だに妙な方向へ飛ぶ。
 記憶の取っ掛かりは麻子だった。彼女と、軍人で思い出すことと言えば、真っ先に思い浮かぶのは一つだ。
 女学校在学中、二人で連れ立って、麻子の婚約者を一目見てやろうと、学校帰りに青山くんだりまで寄り道をしたことがあった。彼が在学中だという陸軍大学校に押しかけたのだ。今思えば、いくらその場所に行ったところで、何の約束もなく、本人を見ることが出来るわけはなかったのだが、十六の少女にとっては、その場所に立っただけでも大冒険だった。
 結局、付近を彷徨いているうちに、麻子が父のよしみで顔見知りだった少佐に見とがめられてしまい、その冒険は、あっけなく終わりを告げたのだった。
「十年以上も前ですが、青山の、大学の前でお会いしました」
 あの時、麻子に声をかけたのが、そう、確か本庄と言った。その後、麻子の家まで送られたから、記憶に残っていたのだ。
 本庄は、合点がいった様子で、一つ頷いた。
「不思議なものですね。確か、あの時陸大には、板垣君も鈴木君もいた」
「そうだったんですか」
 では、もしかしたら偶然に会っていたかもしれない、とまで運命的なものを感じはしなかったが、良いことを聞いたような気がして、喜久子は嬉しくなった。
 それは何も特別なことではなく、この世界では、人と人との縦と横のつながりが、時を隔てていつまでも続いているようだった。広いようで狭い世間の中、不思議な巡り合わせがこれからも続いていく。喜久子は、そのことに気づきつつあった。

 その夜、程良く出来上がった板垣は、寝室に引き上げるとすぐに寝入ってしまった。考えても詮無いことだと分かってはいたが、つい思ってしまう。
 もし、あれが板垣と出会ったときの言葉だったなら、この人だと、運命を感じられただろうに。
 喜久子は、今でも、夫との出会いが、情緒も運命的なものも何も無かったと、味気なく思っているのだった。

 それから約一年、北京に滞在した。
 東京に戻ったのは大正十五年の初秋。蒋介石率いる国民党による北伐が開始され、夜な夜な大砲や航空機の音で悩まされる北京を後にしてのことだった。
 板垣は、動き始めた大陸の情勢を尻目に転任することに、少々残念そうだった。
 喜久子も、慣れつつあった生活を離れることに、名残惜しさを感じながら、連絡船の甲板から、長いこと大陸を眺めていた。
「また来られるかしら」
 何気なくそう呟くと、板垣が「喜久子も支那にはまったかい」と笑った。


作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら