この手にぬくもりを
俯く喜久子を見て、板垣は少し声の調子を上げて言った。
「でも、あいつはいい死に場所を得られたんだ、満足だったと思うよ。羨ましいぐらいだ。奥さんだって、覚悟はできていただろう」
「いい……死に場所?」
板垣の言葉に、喜久子が弾かれたように顔を上げる。一瞬、夫が何を言っているのか、耳を疑った。本当は、疑う理由などなかったが、疑わずにはいられなかった。
「どうして、そう思うんですか? まだお若くて、小さいお子さんだっているのに、戦争に行って、弾丸に当たって死ぬのが、いいわけありません。死んで満足なわけ……」
「喜久子」
感情的になって一気に捲し立てる喜久子を、板垣が制した。突然つかまれた手に驚いて、喜久子は言葉を詰まらせる。
「僕たちは軍人なんだ。いつ、何処で何があるか分からない。戦争に行かなくても、そうだ。君も分かってるだろう」
「それは知っています、でも……」
喜久子は、再び視線を落とした。膝の上の、板垣につかまれた手に視線を泳がせながら、うめくように言う。
「分からない。羨ましいなんて、言わないで。私はそんな覚悟なんて、出来ません」
「しておくんだ」
掴んだ手に一層力が込められる。
喜久子は、夫の厳しい口調に、表情を曇らせた。
「僕だってわざわざ死にたいなんて思っているわけじゃない。でも、何かをやろうとしたら、死ぬことを怖がっていたら、何もできないんだ。なにも僕が死ぬのを喜べ、って言ってるんじゃない、ただ、そういう時の覚悟はいつも……」
そこまで聞いて、喜久子は彼の手を振り解いた。勢いよく立ち上がり、驚く板垣に背を向ける。
「死んでしまったら、それこそ何も出来ないわ。さっきから聞いてると、私には……死にたがってるみたいに聞こえます。僕はいい死に場所が見つかったらそこで死ぬから、覚悟しておけって言ってるように聞こえる」
喜久子の表情は、板垣には見えなかったが、その声と、肩が震えていた。
「そうだよ。……軍人が戦場で死ぬほど幸福なことはないんだ……」
板垣が、小さく、しかしはっきりと言った。
「どうして……!」
喜久子はそう叫び、身を翻して部屋から出ていった。
廊下を抜け、二階への階段を駆け上る。
「……喜久子は分かってくれていると思ってたよ!」
一人残された板垣が、もう見えなくなった喜久子にも聞こえるように、声を張って叫んだ。
喜久子は二階へ上がると、寝室に駆け込んで襖を閉めた後、その場にずるずると座り込んだ。夫が追いかけて上がってくる気配はない。
どうして、分かっている、なんて決めつけるのだろう。ちっとも分かっていない。喜久子の気持ちを、どうして察してくれないのだろう。喜久子が不安なこと、安心させて欲しいこと、そんな、当たり前で切実なことを、どうしてくみ取ってくれないのだろうか。
戦死するかもしれない事ぐらいは、喜久子だって知っている。でも、そんなことは、起こる前から考えたくなどない。実際に起こってしまってから聞くだけでいい。例え現実はどうであろうと、こちらの不安な気持ちを汲んで「絶対に死んだりしない」とか、「必ず帰ってくるよ」と、安心させてくれるような優しい言葉を言ってくれたっていいではないか。
喜久子には、ずっと心の底に抱え込んでいる悩みがあった。誰にも言わず胸に押し込めたまま、普段は思い出しもしない事だったが、それは常に喜久子の不安の底に根ざしている。
落ち着いてくるにつれ、段々と後悔の念がわいてきた。せっかく久しぶりに会えたのに、どうしてこうなるのだろう。いつも台無しにしているのは自分なのだ。落ち着いて考えれば、こんなに腹を立てることでもないはずなのに。
でも、不安でたまらない。
板垣が、喜久子は分かっているはずだ、と思う理由は分かる。軍人だった父が死んだ後、女手一つで自分と二人の弟を育ててくれた母を、喜久子は知っている。父がいなくても、母は明るく、強かった。
でも、父は。
もう寝てしまおう、と喜久子は思って腰を上げた。夫と言い争って飛び出してしまった後は、決まりが悪くて、なるべく顔を合わせたくない。一晩おいて、朝起きたら何事もなかったかのように振る舞う事で、自然解決するのが常だった。喜久子にとっては、いいような悪いような習慣である。
久しぶりに二組の蒲団を並べて敷きながら、喜久子は小さくため息をついた。一人で寝るのがあんなに寂しかったはずなのに、こうなってしまうと気が重い。
寝間着に着替えて、掛け蒲団の上に突っ伏したまましばらく悶々としていると、襖が開いて、板垣が部屋に入ってきた。喜久子は慌てて起き上がり、蒲団からおりる。
「何がそんなに不安なんだ?」
蒲団に入りしなに、板垣が静かに尋ねた。喜久子は、灯りを消そうと伸ばしていた手をふと止める。とっさには答えかねて、喜久子は黙ったまま、灯りを消した。
「僕が死ぬ死なないだけじゃないんだろう」
暗闇の中に、板垣の声がぽつりと響いた。
喜久子は、真っ直ぐ仰向けに横になり、両手を少し蒲団の外側に投げ出して、しばらく考えていた。先頃から頭の中を漠然とぐるぐる回っていたことを、必死に組み立てて、言葉にしていく。
「私……」
喜久子は天井を真っ直ぐ見つめたまま、呟く。隣の蒲団からの返事はない。寝付きのいい彼のことだから、おそらくもう寝てしまったのだろう。
喜久子は構わず、言葉を継いだ。聞いていなくても良かった。声に出すことで自分で自分の気持ちを整理出来るような気がした。どうせ聞かれていない、と思った方が言葉を発しやすい。
「お父さまが亡くなったとき、とても悲しかった。……最初はよく分からなくて……でも、お父さまはもう帰ってこないのよ、って言われて。お父さまは、私に『帰ってくるまでいい子にしていなさい』って言って出かけたのに、でも、本当にそれっきり、帰ってこなかった」
喜久子は目を閉じて、少し息をついた。
「悲しかったけど、でも、その時は納得していました。他にも、戦争に行ったお父さんやお兄さんが帰ってこなかった友達はいたし、それに、先生や……まわりの大人によく言われた。お父さまは偉いわね、勇敢に戦って戦死なさったんだから立派だったわね……って。そんな風に褒められるのは嫌いじゃなかった。ううん、とても嬉しかった。お父さまは勇敢に戦ったけど、悪い敵に殺されてしまった。だから、帰ってこられなくなったんだ、って信じてた」
そう、父が帰ってこなかったのは、帰りたくても帰れなくなってしまったからで、それなら仕方ない、と思っていた。母にもそう言われたし、自分よりもさらに幼い弟達に話すうち、自然とそう思うようになっていた。
「でも、しばらくして、本当のことを聞いたんです。本当はお父さまは、……自分の部隊が全滅した責任をとって、自決したんだ……って」
涙がこみ上げてきて、終わりの方が、泣いているような、笑っているような妙な調子になった。喜久子は、泣いてしまわないように、明るい調子になるように、声を励ました。