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この手にぬくもりを

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 喜久子はもう一度、公使代理と挨拶を交わす本庄を見た。彼は、穏やかで繊細そうな風貌の男だった。取り立てて何か特徴が目に付いたわけではない。しかし、一瞬、喜久子は既視感にとらわれた。気のせいだろうか。
 何処で見たのか思い出すべく、喜久子は本庄を目で追った。
 本当は、そんなことはしてはいけなかったのだ。背伸びをして顎を挙げた瞬間、本庄の傍らにいた板垣と目が合った。彼は特に反応を見せない。だが、気付かれたのは明白だった。
 こういう態度をとられると、喜久子は困ってしまう。さぞ変な顔をしていることだろう。視線をそらしてとぼけることも、にこやかに笑いかけることも出来ない。
 そのまま、一行は駅を後にしていった。

 それから夜までの時間、喜久子は悩み続けていた。板垣が家に帰ってきたら、昼間のことはなんと言うべきか。いや、彼がどう言うだろうか。それには、どう応じれば良いのだろう。と、頭の中で延々とシミュレーションを重ねる。
 たいていは、本番にはその半分も実践できないのだが、それでもやらずにはいられなかった。
「昼間、駅に来ていただろう」と言われれば、「近くまで来ていたので」……それとも、照れくさいけれど「はい、お出迎えに」と言った方がいいのだろうか。「到着されたのを一目見たくて」では大袈裟だ。
 あらかじめ「駅に出迎えに来てくれていたね」と来るかもしれない。この場合は、妙に浮かれたりしてはいけない。夫を出迎える妻のことではなくて、新任の駐在武官の出迎えに参加する軍人の妻の役目を指すに違いないからだ。
 馬鹿なことだ、と喜久子は頭を振った。
 結局、気にしているのは自分だけ、という場合が一番多いのだ。
 案の定、夜になると、板垣は平然と帰ってきて、駅でのことを切り出す様子もなかった。
「……」
「どうかしたのか?」
 喜久子がなにやら考え込んでいることに気がついた板垣が、食事の手を休めて声をかける。
 そこで、喜久子は、今日の駅でのことを思い悩むのをやめた。
「新しい駐在武官のかた……私は以前にお会いしたことはありませんよね?」
「本庄閣下かい? ……今日駅で見たじゃないか」
「そのことではなく、それ以前に、ということです」
 たった今諦めた話題を口にされ、喜久子はわずかに動揺した。
 板垣は、それには全く気づかないようで、顎に手を当て、考えるような仕草をする。
「そうだなあ、支那関係に精通している方で、僕は以前からお世話になっているけど、喜久子は初めてじゃないかな」
「そうですよね」
 やはり気のせいだったのだろう。どこにでもいそうな、温厚な風貌が、既視感を抱かせたに過ぎなかったのだと、喜久子は思った。深く考えても仕方がない。
 これで、今日の気になっていたことはすべて済んだ、とでもいうように、喜久子は晴れやかな表情で席を立った。板垣の食器を下げ、お茶を用意して持ってくる。
 二人で、黙ってしばしお茶を啜っていると、ふと、板垣が呟くように言った。
「今日は、有り難う」
 喜久子は、むせた。慌てて茶碗を卓に置き、手を横に振る。
「いえ、あの、たまたま駅の方に用事があって、それで」
「そうか」
 板垣は、目を細めて頷いた。冷めかけた残りのお茶をぐいと飲み干し、ゆっくりと腰を上げる。
「さて、もう寝ようかな」
「はい、ただいま」
 喜久子は慌ただしく急須と湯飲み茶碗を下げ、蒲団を用意すべく、寝室へ走った。
 どうしてあそこで、心にもない言い訳をしてしまったのだろう。何時間も前からの想定練習もむなしい。夫のことを好きではないふりをしたところで、どうなるわけでもないというのに。
 喜久子が素っ気ない態度を取ってしまう度、板垣が、別に怒っている風でも、傷ついた風でもないところが、喜久子をいっそう混乱させた。
 板垣が羨ましかった。何のてらいもなく、素直に「有り難う」と言ってしまえるところなどは、特に喜久子の苦手とするところだった。自分だったら、はっきりとその行為の意味を確認するまでは、あんな風に言うことはできないだろう。
 彼はたまに、驚くほど察しが良くて、何気ない一言で喜久子の胸を叩くのだ。
 理由は分かっていた。まず、育った環境が違う。素直に甘えることを自戒して来た喜久子とは違い、板垣は周りに散々かわいがられて育ったのだ。
 喜久子も、夫の前では素直でいたいと常々思っているのだが、いつも勝手にブレーキが働いてしまう。それが、躊躇いであったり、先ほどのような余計な言葉だったりするのだ。
 いつかは、素直になれるだろうか。
 その時には、自分たち夫婦は何もかもうまくいって、こんな些細なことで戸惑うこともなく、「幸せ」になっているのだと、喜久子は信じていた。


作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら