この手にぬくもりを
北京の空は青く晴れ渡っていた。
冬の終わりからの黄砂、春の風物詩である柳絮をやり過ごすと、あっという間に夏である。
北京で迎える初めての春、牡丹雪と見まごう楊の綿帽子が街中に舞う様は、それは見事だった。雪と違い、白い綿毛は手にとっても消えず、見上げる空は真っ青なのだ。
しかし、その感激も数日すれば薄れ、もたらす弊害への憎らしさの方が勝って来る。柳絮を思い切り鼻と口に吸い込んでしまうと、鼻の奥と喉の痛みにひとしきり悩まされることになるのだった。油断すると家の中にまで入り、玄関先は綿だらけになる。最初の印象が、とても良かっただけに、残念でならなかった。
庭先を掃きながら、東京で桜が散った後の事を思い出す。散って地に落ち汚れた花びらの掃除と変わらない。きれいな物に裏は付き物なのだろう。
「こら、やめなさい」
ちり取りを手にしようと少し目を離した隙に、集めた柳絮の山に、三歳になる裕が小さな手を突っ込んでいた。手だけでは足りず、面白がって体を入れようとするのを、すんでの所で阻止する。
たちまちベソをかく息子に綿帽子を一つ持たせ、残りを素早く片づけた。
時々、不思議な気分になる。
ここは、日本の外、大陸の北京で、夫は陸軍中佐、公使館付武官補佐官。周りの日本人と言えば同じ軍人家族の他に、外交官、外交官夫人と、聞くからに華やかな響きの方々だった。見るもの、経験するもの全てが目新しくて、赴任してから一年はあっという間に過ぎた。
万里の長城や紫禁城といった所に観光に行ったことですら、喜久子にとっては大事件だったというのに、昨年はさらに清朝最後の皇帝と握手をする機会にまで巡り合ってしまった。
自分の夫が、地位的に恵まれているの立場だと実感したのは、この時だったかも知れない。喜久子も優雅な奥様生活に巻きこまれ、外交官の奥様方と一緒に、洋裁を習い始めた。また、結婚してからぱったりやめていた作歌を、物珍しさも相まって、再び始める事になったのも、北京に来たのがきっかけだった。
数年前には、想像だにしていなかった生活である。
そう考えると、何とも優雅な海外生活を送っているかの様に思えるのだが、実際には、それは日々の生活のなかの特別な一部分に過ぎなかった。多くの時間は主婦であり、母親であることで費やされている。
今、喜久子は、足元に一人、背中とお腹に一人ずつ子供を抱えた姿で、官舎の玄関先の綿ごみを掃除しているのだった。
当初の、親になることへの不安など、子育てに追われているうちに考える暇もなくなり、現在に至っている。
立派な着物を着て皇帝にまみえるよりも、喜久子はこちらの自分の方が好きだった。夫婦で様々な宴に招かれる機会も増えたが、神経を使うし、何より、公使館付武官の顔をした夫を見るのが嫌なのだ。
それは喜久子の知っている板垣とは、まるで違う。嫉妬、とは少し違うこの複雑な感情が、彼女自身も好きではなかった。
「こんにちは」
通りから日本婦人に声をかけられ、喜久子は振り返った。女性はそのまま隣の官舎の門をくぐり、庭の境まで出て喜久子に声をかける。隣の官舎に住む、同じく北京駐在武官夫人鈴木松子だった。
「こんにちは。街へ出てきたの? 大変だったでしょう」
「ええ、今日も排日運動をしているんですもの」
最近、市街では、辻々に旗を押し立てて、「打倒帝国主義」を掲げる活動が展開されている。上海での反帝主義運動の激化を受けて、今や中国全土にそれは波及していた。喜久子も、若い女性達が市場の前で運動費の寄付を募っているのに、遭遇したことがある。恐怖感もあって、最近は街に出るのを控えていた。
松子は、途中まで人と一緒だったから大丈夫、とあっけらかんとしている。
「今日は日曜日なのに、板垣様はお休みではないのね」
「ええ、新しい駐在武官の方を天津まで迎えに出たんです」
そう答えながら、どうして松子に、板垣が休みではないと分かったのだろう、と喜久子は首をかしげた。
松子は笑って言う。
「いつもお休みだとお子様と遊んでいらっしゃるのを見かけるものだから。羨ましいです、子煩悩でお優しそうで」
「いえ、そんな」
喜久子がとんでもない、と首を振ると、松子はため息をついた。
「うちなんて、家では偉ぶっているし、頑固だし、困っていますのよ。いつもご迷惑をかけていますし……」
喜久子はどう返答したものか困惑した。迷惑といっても些細なことで、既に笑い話になっている。口には出したことはないが、喜久子は鈴木大尉の厳しい目つきや頑固そうな口元、スマートさがなかなか気に入っていた。
「あら、帰ってきたわ」
松子の視線を追うと、背広姿の鈴木が歩いてくるのが見えた。軍服よりも背広が似合っている所がまた、この鈴木貞一の特徴だった。
松子は、喜久子に軽く頭を下げると、夫を門まで出迎える。
喜久子に気が付いた鈴木が、帽子を取って頭を下げた。喜久子もそれに応える。
玄関までの道をきびきびと歩く鈴木と、それに従う松子を、喜久子はぼんやり眺めていた。冗談めいて愚痴をこぼしていても、まんざらでもなさそうである。
「少し出かけることになった。仕度するんだ」
「はい、お出かけはどのくらい?」
「二、三日だ。火曜に本庄閣下が着くことになってるんで……ああ奥さん、板垣さんは火曜にはお帰りですよ」
鈴木が、振り返って喜久子にそう告げた。
「はい、ありがとうございます」
官舎内に入って行く隣夫婦を見送った後、喜久子も裕の手を取った。
何処まで付いてきても、夫が留守がちなのは変わらなかった。「北京駐在武官補佐官」といっても、実際は上官である駐在武官の指示を受けて、中国各地を飛び回る。家を空けることも多かった。しかし、外国であることと、北京の癖のある気候になれてしまえば、今までで一番恵まれた環境かもしれない。喜久子はそう思っていた。
火曜日正午過ぎ、喜久子は、子供を家に置いて駅まで行った。板垣は北京に着いても即、家に戻るわけではないだろうから、夫を迎えに行くのではない。道中、新任の駐在武官を出迎えに行くだけだ、と言い訳をしながら歩く。
新駐在武官の出迎えのため、駅には在留邦人が多数集まっている。喜久子は、その集団の後ろに立ち、列車の到着を待った。前方に、公使館の関係者と、支那政府の顧問をしている将軍の姿が見えた。
十二時半、列車がホームに入ってきた。
人垣に隠れながら、喜久子は本庄繁新駐在武官を見た。そして、後ろに付いている夫の姿を認めると、慌てて頭を引っ込めた。
板垣に気付かれるのは、きまりが悪かった。駅まで迎えに来るほど待っていたのか、と思われるのは不本意なのだ。ほんの数時間前に、遠目に姿を見られる、というだけなのに、ここまで来てしまう自分を、きっと彼は笑うだろう。
板垣と結婚したこと、彼の妻であることに不安を覚えることは無くなっていた。しかし、いつまでも抜けない娘気を、夫に知られることは気恥ずかしい。どこか、プライドのようなものもあった。
だから、これから家へ帰って、落ち着いて夫を出迎える。数日以内に行われるであろう、本庄少将着任歓迎の宴でも、精一杯に賢夫人を演じるのだ。