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この手にぬくもりを

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開花




 家には、今月何度目かの客が来て、今日も大いに盛り上がっている。
 喜久子は、気分が悪くて仕方なかった。無理を押して酒を出していたが、客間に漂う酒の匂いに、思わず口を手で抑えてしまう。喉の奥の痛みを必死に下に押しやりながら、ほうほうの体で台所に戻り、ため息をついて腰をおろした。
 喜久子には、ここ数日の間、ずっと悩んでいることがあった。
 こんな時に人を呼ぶな、と言うのは、もう諦めた。そもそも、板垣に何も言っていないのは喜久子の方なのだ。こればかりは、彼に察しろ、とは思わなかった。
 しかし、どうしたものか。
 どうやって、子供が出来たことを、夫に伝えればいいのだろう。
 いつ、どこで、なんと言って告白するのだろうか。
 これは、喜久子の手持ちの「女性のたしなみ」本にも載っていなかったし、さすがの想像力をもってしても、さっぱり分からなかった。
 見知らぬ土地に来たばかりで、周りに相談をする人間もいないため、完全に行き詰まっていた。
 夫に妙なことを言ってしまうことを、喜久子は極度に恐れた。世の中はいろいろなしきたりや礼儀で縛られているくせに、どうして肝心な事には、これという作法が伝わっていないのだろうか。と、勝手なことを思う。
 今夜こそは言うぞ、と覚悟を決めて夫の帰りを待っていたら、お客様である。完全に時機を逸してしまった。その上、体はだるいわ、気分は悪いわで散々だった。
 すると、玄関で来客が帰る物音がする。今日は随分早い、と喜久子はほっとしたが、飲み会の跡を片付けに行く気になれなかった。どうせ板垣は酔っているだろうし、今日はもう話にならないだろう。
「大丈夫か?」
 客を見送った板垣が、玄関からやってきてそう尋ねた。喜久子は平静を装ったが、体の反射とはいえ涙目になった顔を隠せなかった。
「今日は随分早いお開きですね」
「ああ。帰ってもらったよ」
 喜久子は首をかしげながら、片付けに向かおうとすると、板垣が制止した。
「向こうはいいから、もう寝なさい」
 と言う。喜久子はますますわけがわからなくなった。
 具合が悪いのを察して、気を遣ってくれたのだろうか。早く本当のことを言わないと、と申し訳ない気持ちになる。
「あの、……」
 喜久子が言葉を選んで言いよどんでいると、板垣が肩をぽんと叩いた。
「大事にしろよ」
 心臓が、体ごと大きく跳ね上がった気がした。

 喜久子は、風呂につかりながら先程の夫の言動を反芻していた。気付かれた、なぜ、と詮無いことが頭をぐるぐる回る。告白する機会を奪われてしまった。
 どういった状況で切り出すかとか、どういう台詞をいうか、ここ数日いろいろ考えてきた。そのことばかり考えて、悩んできた。それが、一切役に立たないまま、無用になってしまった。
 悔しいやら情けないやら、湯船の中で煩悶しすぎて、少々湯あたりしてしまった。もともと良くなかった体調がますます悪くなり、気分もいらいらしてきた。
 普段は何も察してくれないくせに、こういう大事なときだけどうして、台無しにしてしまうのだろう。
 板垣にとっては、何とも迷惑な話であったが、風呂からあがった喜久子は、いつになく不機嫌だった。
「何を怒っているんだ?」
 気にせず流してしまえば良かった、と板垣は言ってから後悔した。喜久子は、ますます声を尖らせて「怒っていません」と言った後、そそくさと蒲団に入ってしまった。
「もっと早く教えてくれればいいじゃないか」
 早くも何も、まだ自分は何も言っていません、と言いたかったが、喜久子は、ぐっと堪えた。
「ずっと言おうと思っていました」
 板垣は首をかしげた。ここ数日、喜久子の様子が変だと感じたのが、気のせいではなかったことは分かったが、先ほどからの言動が、さっぱり理解できない。
 喜久子は蒲団から起き上がって、板垣を睨み付けた。
「そう、ずっと……それなのに、あなたが……」
「本当なんだね?」
「当たり前です、こんなことで嘘はつきません」
 なぜ素直にはい、と言えないのだろう。そう思いながらも、とげとげしい物言いを止められない。
「じゃあ、すぐ言ってくれればいいじゃないか」
 そこを指摘されると痛いのだが。
「こ、こういうのは、情緒とか雰囲気とか……間合いとかいろいろとあるんです!」
 言ってから恥ずかしくなって、とても後悔した。喜久子は枕に突っ伏して蒲団をかぶる。
 板垣がその意味を理解したとは思えなかったが、彼は一つ頷いて、
「まあ、よかったよ」
と蒲団越しに喜久子を優しく叩いた。
 なんだかひどく幸せで、胸の奥が苦しくて、首から上が熱くて仕方なかった。
 夫が、今日飲みに来ていた将校に、奥さんはおめでたか、と指摘されて気が付いた、と告白するまでは。


その後の経過は、順調であった。板垣との生活、小倉での生活への慣れも作用し、特に問題もなく、日々の生活は過ぎていく。
 しかし、何とかなると信じていても、不安になることはあるもので。
 これは自然現象なのだから、成り行きに任せればいいのだ。そういうことには自信があった。喜久子は自分が極めて安産体型なのを自覚していたし、昔から身体だけは丈夫なのだ。ここまで、何事もなかったのだから、あとはなるようになる。
 そう頭では分かっていても、経験のない、未知の世界である。みんなやっていることだ、と自分の気を落ち着かせるが、それでは、どのように乗り切っているのか、というと、さっぱり見当もつかない。もっと、普段から妊婦や赤ん坊を良く見ておけばよかった。
 産婆さんや近所の人にもよくしてもらっていたが、不安のことは口には出さず、平気を装っていた。実際、経過は順調で、何の問題もない。だが、不安でいっぱいだった。最近母が恋しくて仕方がない。
 こんなことなら、里帰りをすればよかった、と思う。板垣は勧めてくれたのだ、でも、小倉からの距離の長さに尻込みしたのと、初めての子供は父親の側で産みたいという喜久子のこだわりもあり、ここに留まることにした。
 彼がいれば、大丈夫。
 そうやって乗り越えられると、思っていた。
 しかし、いかに夫が優しかろうと協力的であろうと、出産という大仕事をするのは喜久子一人である。お腹がますます大きくなってからそのことに気が付いたが、すでに遅かった。自分で残ると言った以上、それは、自分ひとりで大丈夫だと宣言したということだ。今更、泣き言などいえない。
 半ば、意地だった。自分が弱くて、子供っぽいと、板垣に思われたくなかった。立派な妻になりたい。そのためには、弱みなど見せてはいけない、と思っていた。


作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら