この手にぬくもりを
暮れも押し迫った、日曜日のことだった。
板垣は、駅に人を迎えに行く、とだけ言い、ふらりと出かけていった。
こんな時期に、いったい誰が来るのだろうと訝りながらも、喜久子はもてなしの用意をして待っていた。そろそろ大掃除をしなければならないが、今年は軽く済ませよう、とぼんやり思った。
戻ってきた板垣と客人を出迎えに出て、喜久子は仰天した。
「お母さま……?」
夫が丁重に連れてきたのは、喜久子の母、庸子であった。
「おやまあ、立派なお腹になって」
母が感慨深げに声を上げたが、喜久子はそれに答えるどころではない。
「一体どうしたの。ここまで一人で来たの?」
というのがやっとであった。早く上がってもらいなさいと、荷物を担いだ板垣が促したので、それに従う。
母は夫婦二人を交互に眺めながら、板垣からの手紙で、ぜひ来て欲しいと請われた、と語った。喜久子が弾かれたように夫を見ると、彼は少し視線をはずして頭を掻いていた。そのうち、母娘で気兼ねなくどうぞ、と言って席をはずしてしまう。
夢でも見ているのではないかと思った。このところ一番会いたかった母が来ている。喜久子のお産の手伝いをしてくれると言う。
「あとでちゃんとお礼を言いなさいね」
二人きりになってから、母は言った。板垣から、喜久子が望んでいるから来て下さいという手紙をもらったと言う。そんなこと、喜久子は彼に言った覚えがない。
「その様子だと、あなたはまた意地をはったんでしょう」
「そんなことない」
喜久子は、力なく首を振って否定した。
「言った言わないのことではありませんよ。……平気なふりをして」
図星だった。
喜久子は、観念した。母にはかなわない。
だとしたら、板垣にもそれがお見通しだったのだろうか。喜久子は恥ずかしくなった。いつも茫洋としていて、喜久子の気持ちなど全く察してくれない、と思っていた相手に、全部気付かれていたのだとしたら。
これは、とても嬉しい事かもしれない。
頭がくらくらしてきた。喜久子に当日まで黙っていたことも、先ほどの不器用な態度も、すべてを好意的に解釈できるのが不思議だった。
今なら、素直になれる気がした。
「どうもありがとうございました」
その夜、喜久子は床につく前に、改めて夫にお礼を言った。言いたいことが色々あって、それをどう伝えようかと必死に考えていたはずなのに、ごく普通の言葉の後、何も出てこなくなってしまった。板垣も軽く頷いただけで黙っているので、喜久子は困ってしまう。
これは、互いに通じている、と思ってしまっても良いのだろうか。それならそれで、理想的ではあるのだが、そんな保証は何処にもない。そして、味気なさすぎる。
「どうして、黙っていらっしゃったんですか?」
何も、家に連れてくるまで内緒にしておく事はないだろうに、と喜久子は正直に尋ねてみた。そして、喜ばしい答えが返ることを、淡く期待する。
「前に、喜久子は断ったろう」
「はい。……ご心配をかけたくなかったので」
一人でも平気だと、言った。
「一人で頑張って無理をしてしまう方が、心配だよ」
喜久子は、夫の言葉を跳ね上がる胸に押し込んだ。何と返事したら良いのか分からなくて、困ってしまう。見抜かれたのが、嬉しいような恥ずかしいような、複雑な気持ちだった。板垣は、ゆっくりと続けた。
「喜久子はもっと、周りに頼ってもいいと思うよ」
彼は、何でもないことのように、さらりと言う。喜久子がいつも心の底に溜めているそのことを、板垣はいとも簡単に口に出してしまえるのだ。
「私、は」
声が震えた。見抜かれるのが、核心を突かれるのが怖かった。母に指摘されるのとは違う。
ずっと、人に頼るには、甘えるには勇気がいった。
それは自分の弱さを見せることだ。喜久子は、ずっとそれに抵抗を感じて生きてきた。
弱い自分を見せたくない自尊心と、嫌われることへの恐怖が、深く繋がっている。だから、泣いているのを誰かに見られるのが嫌いだった。泣くのは自分が弱いからで、自分が負けて悔しいからなのだから。そしてそれは、人に失望される行為でしかないと思っていた。
そんな喜久子の頑なな心を、板垣は易々と飛び越える。
「辛かったら、泣いてもいい。不安だったら、はっきり言えばいい。それぐらいでは誰も、喜久子を咎めたりはしないよ」
その言葉に、喜久子の胸の奥に掛かっていた箍(たが)が、外れた。涙が溢れてくる。
今までの悲しかったり、悔しかったりした時の、誰にも見せたくない涙とは違った。彼の言葉が、喜久子の一番欲しかったものを、具現化してくれた。
不思議だ。どうしてこの人の前では、泣くのが嫌ではないのだろう。こうやって感情が抑えられなくて泣いてしまう度に、喜久子は思う。
夫の肩に横向きに頭を預けて、喜久子はひとしきり泣いた。不安や、我慢してきたものを押し流すように、熱い涙が後から後から溢れてきた。
その間、何度かお腹の赤ん坊が小さな自己主張をした。
「名前、考えてくれていますか?」
涙が収まった頃、喜久子はそっと聞いてみた。
「いや、色々考えてみたんだけど、なかなか実感がわかなくて。生まれたら考えるよ」
名前を付ける、という行為に、喜久子はとても心を弾ませているのだが、板垣はそうでもないらしい。
「もう寝ようか」
板垣はそう言って、喜久子が横になるのを助けてくれる。初めてのことではないが、今日はいつもより素直に受けることができた。
「僕も少し不安だったんだよ」
灯りを消す前に、そう言って板垣は笑った。
「だから、お母さんに来てもらえてよかった」
喜久子は、横になったまま、頷いた。そして、もう一度、さっきよりもいろいろな意味を込めて、言った。
「ありがとうございます」
これが幸せというのかもしれない。
喜久子は、今日は彼の方に体を向けて寝よう、と思った。