この手にぬくもりを
「……今日の汽車は終わったよ」
それを聞いて、喜久子は、さあっと気が抜けてしまった。現実を指摘されて、決まりが悪いはずなのに、握られた手が急に温かく感じられて、何がなんだか分からなくなる。
板垣はもう一度、帰るぞ、と促してから、喜久子の手を引いた。しかし、彼女の足は動かない。板垣が怪訝そうに振り返る。
「……ごめんなさい」
喜久子は小さくつぶやく。
そして次に、振り絞るように、言った。
「でも、もっと早く来てくださったって……」
最後まで言えずに、涙があふれ出す。喜久子は少し混乱していて、なぜ自分がこんなことを言ったのか、なぜ涙が出るのか、よく分からなかった。人前で泣くなんて、何より嫌いだったはずなのに、一度こぼれた涙はどんどんあふれてきて止まらない。
板垣は、泣き出した喜久子を前に、人気のない駅の待合所で途方に暮れた。黙って喜久子と肩を並べて座り、彼女が落ち着くのを待つ。
緑の葉が見え始めた桜並木が、小さな花びらを降らせている。喜久子が昼間に一人で歩いたときは眺めるゆとりもなかったが、今見上げるととても綺麗だった。夕日の色に染まって、花びらが茜色に見えた。
駅から家まで、二人は歩いて帰った。喜久子は板垣の前でみっともなく大泣きしてしまったことが恥ずかしくて、黙って、彼の後ろについて歩いた。
「きっと、これからも、一緒にいられることは少ないと思う」
板垣がぽつぽつと話す言葉を、喜久子は静かに聞いていた。
「だから、わざわざ一人でいたいなんて言うなよ」
喜久子は、先ほど握られた手のぬくもりを思い出した。
きっとこの人は、言葉で伝えるのが苦手なのだ。
ずっと、はっきりとした言葉や行動を求めていた喜久子は、その優しさに気づかなかった。
分かっている。喜久子だって、本当は一人でいたくなどない。
理想とは、自分の憧れとは違うかもしれない。それでも、一人で思い描いていた物とは別の、二人の幸せもあるかもしれない。もちろん、そのうちに少しずつでも喜久子の理想に近づいていけばそれが一番なのだが。
喜久子はそっと、夫に寄り添い、彼の手を握り返した。