この手にぬくもりを
八月に入ったばかりの金曜日、板垣は午前様ぎりぎりの時分に、酒の匂いを漂わせて帰ってきた。
顔を赤く染めていたが、足取りはしっかりしている。どんなに遅くなっても、へべれけにならずに帰ってくるのはありがたかった。こいつは酔いつぶれないので助かります、と以前、板垣を送ってきた将校が言っていた。大酒飲みだが、酒に飲まれることはないらしい。
この夜も、板垣は着替えている間、形にならない唄を歌い出し、上機嫌であった。
「何かいいことがありましたか」
喜久子が尋ねると、板垣は頷いた。
「任地が決まった」
そう言って、蒲団の上に腰をおろし、胡座をかいた。
今日はその祝いに、送別もかねて友人と宴会をしたらしい。
「おめでとうございます。どちらへ」
「雲南だ。再来週には発つ」
喜久子は首をかしげた。欧米ではないらしい、とは分かった。
「支那の奥の方だよ」
と言われても、奥といわれてもどのくらい奥なのか、さっぱり見当がつかない。夫が支那行きを希望していることは知っていたが、支那といえば、北京や上海に行くのではないかと、勝手に想像していた。
「遠いんですか」
「遠いかな。大陸は広いんだよ。明日でも地図を見るといい」
今日はもう寝る、といって板垣は蒲団をかぶった。灯りを消し、喜久子も床に入った。
すぐに、彼の規則正しい寝息が聞こえて来る。喜久子が、以前ほど、それが気にならなくなったことに気が付いたとき、寂しさが一筋、胸をよぎった。