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この手にぬくもりを

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 結婚してから四ヶ月も経たないうちに、夫は海外赴任で家を空けることになった。そのため新婚四ヶ月で、喜久子は義母と二人、留守居をする羽目になった。
 この留守居によって、喜久子は振り出しに戻ったどころか、後退したような気がした。当初、板垣の継母である姑とは、それほど長く同居をする義理もないと思っていたというのに、二人で暮らすことになったのだ。横須賀には義母の実子、板垣の異母弟も住んでいるというのに、なぜそちらに住まないのだろうか。
 喜久子は、長いこと留守にする板垣が、監視のために仕組んだのではないかとすら感じていた。そんな疑心を抱かず、彼なりの考えがあってのことだ、と思えればどんなに良いだろう。板垣を信頼しきれていない自分自身が、許せなかった。
 短期間なら嫁のつとめ、とでも思って耐えることぐらい喜久子も覚悟していたが、板垣の単身赴任がそのまま三年も続いた。時々手紙は来たが、返事を書こうにも、どう接するか手探りのうちに遠くなってしまった夫に、何を書いていいのやら、喜久子は途方に暮れた。手紙に同封された写真に色はなく、昆明だ、漢口だと言われても、喜久子にはさっぱり想像がつかなかった。
 一体、夫と過ごした時間の何倍を、この姑と過ごしたのだろう。夫ではなくほとんど姑に仕えているようなものだ。
 出会ってから、なかなか思うようにいかなかった関係だが、夫婦になって、一つ屋根の下に住むようになれば、自然と、それらしい関係をはぐくむことができるのだと期待していた。早くもそれをくじかれ、喜久子は腐りきっていた。
 それでも、夫が帰って来てくれれば何かが変わる、と思っていたので、喜久子は、彼に早く帰ってきて欲しかった。その根源が、会いたかったり、恋しかったりという感情でないのが、不本意ではあったが。
 そのため、大正十年になって、ようやく帰国した板垣が、今度の赴任先には喜久子を連れて行く、と告げた時は、純粋に嬉しかった。
 軍人に嫁いだ以上、一緒に暮らす時が少ないことは覚悟している。喜久子は、そのことよりも、自分の理想と現実との隔たりに、いらだちを感じていた。
 夫が帰ってきた時、それまでの自分が「寂しかった」のだと感じられた事に、喜久子はほっとした。その気持ちを素直に表すことができないのがもどかしかった。やはり心の底から信頼できていないからなのだろうか。
 そんな些細なことで沈む気持ちも、これからのことを考えると明るくなった。今度は、二人で暮らすのだ。夫婦水入らずで。それを考えると、期待せずにはいられない。

 新たな赴任先は、小倉だった。板垣の任務は連隊の大隊長である。
 越してきて間もなく、ようやく借家の中も落ち着いてきた頃のことだった。喜久子が夕食の仕度をしていると、玄関の戸が叩かれた。応対に出てみると、見知らぬ陸軍将校が一人、戸口に立っていた。板垣の知り合いだろうか。
「どちらさまでしょう、主人はまだ帰りませんが……」
 言うや否や、将校は険しい形相で、喜久子を睨み付けた。彼女が驚いて身がすくみ、動けないでいると、その将校はそのまま無言で去っていってしまった。
「……何だったの?」
 突然見知らぬ男に、訳も分からず睨み付けられてすっかり震え上がってしまい、呼び止める気も追いかける気も起きない。喜久子はそのまま、玄関先にへなへなと座り込んでしまった。
 しかし、それも一時のことで、板垣が帰ってくるまでには恐怖はすっかり消え、どうして睨み付けられなくてはならないのか、とむしろ憤慨していた。喜久子は、帰宅した夫に話そうかとも思ったが、要領を得ない話であるのと、自分がまだ「慣れてない」せいもあって、言うのはやめておいた。
 食卓を囲む夫婦二人の間には、不自然なほど会話がなかった。板垣は、朝は新聞、晩はなにやら小難しい本を片手に、無意識に箸を動かす有様で、滅多に顔も上げない。何か話を振ってもらえれば、喜久子も会話をする気があるのだが、注意すら上の空で聞いていない人間に、何を話しかけても無駄であった。
 姑がいることに不満があったはずなのに、今は彼女がいた方が、どんなにましかと思うようになった。少なくとも、母がいる時は、板垣は食事中に本を読んだりはしていなかったのだ。
 喜久子には、事態は改善されるどころか悪化しているように思えた。どんどんと思考がマイナス方向に積み重なっていく。
 今更ながら、喜久子は強い後悔に見舞われた。会った瞬間に「この人だ」と思ったのではないのだから、どんなに甘い言葉をささやかれようと、断固、結婚なんてしなければ良かったのだ。彼は喜久子のことなどどうでもいいのだ。大方、軍人の父を亡くした哀れな娘を義理でもらってやった、ぐらいに思っているのだろう。分かっていたはずだった。
 それでも、少しは夢を見ていた。夫婦二人で暮らすようになれば、憧れていた理想の夫婦のごとく仲睦まじく、なれるなどと。だから、二人で暮らせると聞いてとても嬉しかったのだ。
 現実なんてこんなものだ。
 夢見たようなことが本当にあるわけがない。
 喜久子はそう思おうとした。しかし、それでも、どこかでまだ期待している。彼女には、諦めきれないものがたくさんあった。一つずつ諦めていって、いつか全部なくなったりするのは、嫌だった。
 その夜、午前一時も回ろうという頃だった。
 喜久子が蒲団の中でつらつらとまどろみはじめたところに、玄関の方で物音がした。続いて、荒々しく戸が叩かれる。こんな時間に誰だろう、と思いながらも起きあがり、羽織りを引っかける。
 隣で眠っている板垣は、気がついていないようだった。彼を起こさないように、そっと応対に出る。深夜のことで、あまり気が進まなかったが、だからこそ何か緊急の用事かもしれない。
 戸を開けると、随分と酔っている将校が三人、玄関にズカズカと入り込んできた。そのうち一人は、見覚えがあった。夕刻に来て何も言わずに帰っていった将校だ。恐怖を感じてそのまま奥に引っ込みたくなったが、そういうわけにもいかない。
 喜久子が何か言おうとするよりも先に、男達は、
「ここですよ。邪険に追い払いやがって」
「俺達をなんだと思ってるんだ」
「この家の女房は将校のもてなしかたも知らないのか」
と、すごんできた。
 見ず知らずの人間に咎められ、喜久子は情けないやら悔しいやらで、目に涙がじわっと上がってきた。男性にこれほど厳しい物言いをされたのも初めてだった。相手が酔っているということも、喜久子の恐怖心を煽った。何か言えば泣き出してしまいそうだし、男三人に睨み付けられて、恐ろしくて逃げ出したくなる。
 その時、喜久子の背後から声がかかった。
「いやぁ、すまんすまん」
 玄関先が騒がしいのに気がついて起きてきたのだろう、板垣が喜久子と将校達の間に入った。
「俺の教育がなってなかった。……こいつはまだ、将校の扱いを知らなくてな」
 そう言って板垣が頭を下げると、将校達の興奮もいくらか冷めたようだった。
 喜久子は板垣の背中に隠れるようにして、無意識のうちに彼の羽織を握りしめていた。板垣がそれに気がついて振り返る。視線に気がついた喜久子は、慌てて手を離した。
(かばってくれたのだろうか)
作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら