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この手にぬくもりを

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 夏になった。板垣との関係は相変わらずで、喜久子が、彼の信条を把握しつつ、仕えるしかないと悟り始めたのはこのころだった。
 その日は日曜日で、喜久子は部屋の掃除をしていた。家は借家で、大きいはずもなく、喜久子がここに来たときには、姑のつましい家財道具の他は、何もなかった。その代わりに、本だけはあふれていた。板垣は、物質的にはほとんど無欲だったが「本を買うのだけは惜しまないように」と結婚時に約束させられた通り、本にかけるお金には全く無頓着なようだった。喜久子も、昔からほしい物といえば、きれいな着物や飾り物よりも本だったので、全く抵抗を感じなかった。
 ただ、読む作業よりも、読む物を増やす作業の方が速度が速いので、部屋は未読の本だらけになっている。今日のように、掃除中に派手に足を引っかけ、雪崩を起こした本の山を元に戻す時には、立派な書棚の一つでもあった方がいいのではないかと思った。
 板垣の読む本は、堅い本ばかりだった。大学の紀要であるとか、経済の本などで、喜久子がこうして手にとっても、読んでみたい、と思えるようなものには出会ったことがない。喜久子にとって、読書は趣味であったが、夫にとっては勉強なのだろう。寝る前にじっと本を読んでいる様などを見ていると、そう思った。
 本を重ね終えた時、玄関の戸が開く音がした。義母を寄席に連れて行っていた板垣が、帰ってきたのだ。
 今日は暑いね、と団扇を片手に汗を拭く夫に、冷たいものを用意する。彼はそれを一息で飲み干すと、奥の部屋へ入って本を一冊持って来た。それを開いて、畳の上に寝ころぶ。
「時間になったら教えてくれ」
 寄席がはねる頃合いを見て、板垣はいつも迎えに行くのだった。
「はい。あの、私が行きましょうか」
 喜久子がそう申し出ると、板垣は笑った。
「いや、いいよ。僕の仕事だからね」
 彼曰く、自分が親孝行するために一緒に住んでもらっている、のだという。実際のところ、姑の寄席好きと、板垣の送り迎えには、喜久子も助かっていた。
 彼女は、夫が孝行のためという他に、妻の羽のばしのために、という理由も含めて、母を寄席へ連れ出してくれていると思っていた。それで、自分が行こうかと申し出る余裕もあるというものだった。
 板垣にわざわざ聞いたわけではないので、本当のところは分からないのだが、喜久子がそう思って一人で喜んでいる分には害はあるまい。ひとりでに顔が綻んでくる。
 すると不意に、板垣が声を発した。
「本の場所を変えたかい」
 喜久子は慌てて口元を手で押さえ、表情を引っ込めたが、板垣は本から顔を上げていなかった。
「ごめんなさい。うっかりしていて倒してしまって」
「あんなところに置いておくのが悪いんだから、気にしなくていい」
 視線を本に落としたままそう言われると、穏やかな口調とは裏腹に、とても怒っているのではないかと錯覚させられる。もちろん、顔を上げて言われたところで、同じような感じを受けるのが、板垣征四郎という人間なのだったが。
 そうですか、と言うこともできないので、喜久子が黙っていると、板垣がふと視線をあげて続けた。
「どうも、本を買うのはいいんだけれど、読むのが追いつかなくてね。以前から分かってはいるのだけれど、これはと思うとつい買ってしまう。本に掛ける金に不自由しないというのも、こういう弊害があるね」
「何となく分かります。私は女学生の時分、本は貸本屋などですませずに自分で買いなさいと言われたことがあります。自分でお金を払ったのだと思えば、読まないと損だと思って読むだろうからと」
「読書と損得を絡めるのは感心しないな」
 板垣のつぶやきに、喜久子は頷いた。
「でも、私は逆で。買ってしまうと、いつまでも手元にあると思うから、つい読むのを後回しにしてしまうんですよね。逆に借りて済ませたものほど、早く返さなくてはという意識があるから、すぐ読めるんです。それで気に入った本などは、やっぱり自分で買うんですけど」
「そうだな。世の中には本なんていくらでもあるんだから、自分の読むべき本を選ぶ必要があるんだよ。やたらに買って読まずに積み上げておくのは、本にとっても良くないことかもしれないね」
「でも、あなたはいつも熱心に読んでいらっしゃいますから」
「いや、これでも前科があるんだよ」
 そう言って、板垣は数年前の失敗談を、笑いながら話してくれた。
 板垣は、士官学校の区隊長をしていた頃、市ヶ谷近くの素人下宿に五年ほど住んでいた。その時、士官学校の前にあった本屋で、手当たり次第に書籍各種を買い集めた。陸軍大学の受験を考えていた頃だったから、その頃出ていた戦術論などの本は、特に力を入れて集めたという。
 ところが、読む方は、到底供給に追いつかず、遅々として進まない。未読の本の山を前にすると焦燥感だけが募り、とにかく目を通したが、濫読の結果、大して頭には残らなかった。そして、中隊長として仙台に赴任することが決まった時、床の間や押入れに山と積まれた書籍を前に思った。これでは何のために本を買ったのか分からない、と板垣は苦笑いを浮かべながら語った。
 今まででさえ読めないのに、今後さらに読む余裕はなくなるだろう。
「引越しの足手まといだ、と妙な理屈をつけてほとんど売り払ったんだ。結局何のことだか分からない。無計画な読書の失敗例だよ」
 喜久子は、今家にある本を思い浮かべて、これで計画的に読んでいるのなら、昔はどれほど買っていたのか、想像もつかなかった。ただ、話を聞いて、この失敗談に金銭的な損という考えが一切表れていないのが、彼らしいと思った。
「ここにも随分置いていくことになるだろうけど、外に出ている分は、ちゃんと来月までには整理しておくから、辛抱してくれ」
 来月八月は、陸軍の定期異動の発表がある月だ。陸軍大学を卒業した者は、しばらく海外に赴任するのが慣例であった。板垣も例に漏れず、昨年暮れに陸大を卒業し、本人も希望を出していたから、次の任地が国外であることは間違いなかった。
 このことは、結婚時にはっきり告げられていたが、こうして、結婚生活を三ヶ月経験した後に考えると、別の不安がわいてくる。
 ようやく、なんとか会話も臆せずに出来るようになり、夫婦としてうまくやっていけそうだと感じられて来たというのに、一年も二年も家を留守にされたら、また振り出しに戻ってしまう気がする。それは、想像していたのとは違った感情だった。夫の不在は寂しいことで、恋しくて辛いのを辛抱することかと思ったのだ。自分たちが其処までの水準に至っていないことを思い知らされる。
 そんな喜久子の気持ちを知ってか知らずか、板垣はこの海外赴任をとても楽しみにしているようだった。


作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら