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この手にぬくもりを

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 しかし、怒や哀はともかく、喜びまで表に出さないというのはなんだかさびしい感じがした。それで、父の印象が薄いのだろうか。父は厳しい人だったが、喜久子は、目の前で母が父に叱られるところを見たことがない。正確には、父は子供たちの前では、決して母を叱らなかった。一度夜中に目を覚ましたときに、怒った父の声を聞いて吃驚したことがある。
「喜久子は、僕に叱られたいのかい」
 喜久子は、とっさに首を横に振った。
「そうではなくて……嫌われたくないですから」
 俯き、蚊の鳴くような声で言うと、板垣は顎に手を当て、首を傾げた。
「僕なら、好かれたい、と思うけどなあ」
 その言葉を聞いて、喜久子は弾かれたように顔を上げた。両手の指の間がこそばゆく、そこから甘い痺れがじわじわと上がってくる。「それは、どういう意味なのでしょうか」とは聞くことが出来なかった。
 この夜、喜久子は頭の中で、ずっと思い続けた。自分相手には喜怒哀楽を表に出してもいいのに、と。そうするに足る特別な存在になりたかった。自分の前では本心が言えるとか、わがままを言えるとか。そういった、形にはならなくともはっきりと見える絆が欲しいと思った。
 とはいえ、彼が「好かれたい」と吐露したときに、すぐに「私はあなたが好きです」とすら返せなかった自分には、到底及び得ないことだとも思った。
 しかし、いつかは出来るようになると、希望を抱いていた。喜久子は、いざとなれば自分が、夫の悩みや辛さを受け止めることが出来るようになると信じていた。そしてそれが、自分にとって幸せなことなのだとも。
 この時の喜久子は、将来、夫の心の内の苦悩が途方もなく深く、広い問題に及ぶようになることなど、想像もしていなかった。
 ただ、自分と夫と、それを取り巻く小さな環境だけが、未来を握っている。そんな、幸せな時期だった。


作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら