小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

この手にぬくもりを

INDEX|14ページ/72ページ|

次のページ前のページ
 

若葉




 一人は寂しいことだと思っていた。
 だから、もう一人ではないと思ったら、それは嬉しかったものだ。
 しかし今、とても「一人になりたい」と思う自分がいる。微妙にニュアンスが違うにしろ、喜久子にとっては、大きな葛藤であった。
 板垣と結婚して、二ヶ月あまりが過ぎた。
 郊外の住宅での、夫と義母との暮らしにもだんだんと慣れてきた反面、発散できないものがこの二ヶ月でだいぶ積もっている。
 それが具体的に表れたのが、「一人になりたい」という願望だった。
 ある日、ふと気がついてしまったのだ。
 自分が一人になれたとき、とても気が楽なこと。それが、ほんのわずかしかないこと。一日の終わりに、終い湯に入っている時間が、とても貴重な物のように思えた。そのたわいのないひとときが、喜久子にはとても楽しみだった。
 あとは、姑が外に出かける時くらいだが、これはなかなか気がもめた。
 まるで、子供の頃、母親が出かけている間に、こっそり家で何ができるかと考えていた、スリルの入り交じった高揚感にそっくりだった。
 そんなささやかな時間を楽しみに、頑張っていられる間は大丈夫。
 喜久子はそう思い、毎日を前向きに過ごすことに決めた。
 不満があるわけではないのだ。
 夫は想像よりもずっと穏やかで寛容だった。姑も、いわゆる鬼姑ではない、と思う。
 板垣の継母、芳子は小柄で活発な人だった。体はあまり丈夫な方ではないようだったが、何でもてきぱきとこなし、喜久子の働きを注意することも忘れない。なるからには完璧な嫁になりたいと思っていた喜久子だったが、最初の一週間でその心構えを捨てることになった。全部応えていけばいい嫁になれるのだ、という期待を持って、姑に応え続けて分かったのは、彼女の言うことには際限がない、ということであった。掃除の仕方や、食事の支度など、日常生活の面ではおおざっぱな喜久子は、姑の細かさには、本当に驚いた。彼女は、少しでも気になることがあると、何でもすぱっと口に出すことができるらしい。その点は、少し羨ましかった。
 慣れてくれば、姑の言葉はあまり気にならなくなった。意地悪での言葉か、そうでないかは、意外と簡単に分かるものである。
 むしろ悩みの種は、夫の方であった。つかみ所がない。あまり喋る方ではないので、二人でいても間が持たない。そのうち打ち解けることができるだろう、と喜久子は淡い期待を持っていたが、実際のところ、何かが起こらなければ、この関係は進展しないように思えた。
 特に気になったのは、彼から一度も叱られたことがない、ということだった。何か気に入らないことがあれば、夫というものは妻を叱るのだと、喜久子は思っていた。むろん想像なので、自分の都合のいいように考えているだけかもしれない。
 叱られれば、何がいけないのか、今後どうすればいいか分かる。それで彼の妻としてのあり方を身に染みこませていき、内助の功を達成する。これが、当初の目標だった。
 しかし、板垣はいつも穏やかで何を考えているのやら、とにかく、喜久子に対して叱ったり不満を言ったりしないのだ。それが、全く不満がなくて満足している結果ならば、妻としても願ったりなのだが、そうではないらしい。
 あれは、いろいろ我慢しているのだ。喜久子が何かへまをやっても、怒らずにじっと辛抱しているのだ。そして一瞬、夫は少し困ったような、寂しそうな表情をする。その時にはっきり言ってくれればいいのに、彼は黙って何事もなかったようにすませてしまうのだった。
 確かに、激怒されるような重大な失敗は犯していないので、温厚な人でよかった、と喜んでしまえばいいのかもしれない。しかし、彼の表情に気がついてからは、ずっと引っかかっている。
 その為か、喜久子は未だに夫と二人きりになることに緊張感を覚えていた。一人になりたい、としきりに思う原因はそこにあるのかもしれない。結婚する前は、完全に「一人の時間」であった就寝前の時間が、気疲れする相手との時間になってしまったのだ。人の気配や呼吸の音が気になって、一度気にし始めるといつまでも眠れない。とりあえず、隣に背を向けて横向きになり、蒲団をかぶってどうにか寝ることには慣れてきたが、その他の面では未だにどうして良いか分からないことだらけであった。

 その夜は、汗がじっとりとはりつくようで、蒸し暑かった。風呂から上がって寝室に戻ると、先に休んだと思っていた板垣が、寝苦しさに耐えかねたのか、障子を開け放って、縁側に出ていた。
「何かお持ちしましょうか」
 喜久子の問いかけに、板垣は「いや、いい」と軽く手を振って応えた。
 さて、喜久子はどうしたらいいのか困ってしまう。寝るわけにもゆかず、鏡台の前で髪をまとめた後は、蒲団の脇に所在なげに座っていた。それに気がついた板垣が、傍らへ来るように促した。
 そこには、あの表情があった。
 きっとこれは、「どうしてそんなところに座っているんだ、こっちへ来い」という不満のジェスチャーなのだろう。こういうことを、察することができない自分がもどかしい。
 そして、はっきり言ってもらえれば、次回からはこうすればいい、という答えがもらえるのに、と思う。
 喜久子はのろのろと夫の隣に移動した。
 湿った空気は相変わらずで、あまり気分は良くなかった。高くあがった月に、うっすらと雲がかかっている。
「母とはうまくやっているかい」
 板垣が尋ねた。
「はい」
「だいぶ叱られているようだから」
「いいえ。お母様も私のためを思って言ってくださるのですから。いつも叱られていた方が、何か取り返しのつかないことをしてしまう前に分かりますから、その方がいいです」
 言ってから、皮肉に聞こえてしまったのではないかと、喜久子はひやりとした。
「そうか」
 板垣は軽く頷き、考えるような仕草をする。
「そうだね、別に気に入らないことがあってやかましく言っているのではないよ」
 彼は穏やかな口調のままでそう続けた。そして、喜久子の方をじっと見つめる。
 喜久子はたじろいだ。緊張で胸が高鳴る。これは、何かを言いたいという表情ではないようであった。
 何か言いたいことがあるならいいなさい、なのだと、喜久子は感じた。そして、今一番言いたいことが、不思議なほどすんなりと出てきた。
「何か気に入らないことがあったら、叱ってください」
 夫は自分に気を遣って叱らないでいるのだと思っていたから、叱ってくれて構わない、ということを伝えたつもりだった。しかし、板垣は笑って言った。
「男は喜怒哀楽を表に出さないというのが、君のお父さんの教えだったよ」
 結局、彼との関係には父の影が付きまとうのだということを、喜久子は改めて感じた。しかし、もうそれが不快だとは思わなかった。自分の知らない父の話を聞くことで、父をより理解できるのではないかと、思う。この教えというのも、「父らしい」ものの一つなのだろう。喜久子の母ならそう言うに違いない。
作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら