この手にぬくもりを
大正六年、四月二十三日。
その日の昼間の記憶は、夢のようで定かではない。
まだ宵も明け切らぬうちから起床して、これでもかというほどに塗りたくられた化粧に気分が悪くなった頃、人力車に乗り込んだ。
式場に着いた後は、さらに頭がぼんやりとしていた。
ただ一つ、印象に残っていることといえば、陸軍大尉の正装を身にまとった板垣の姿だった。彼が動くたびに、頭の上で揺れるあの白いふわふわした飾りは、いったい何の鳥の羽なのだろう、と、変に気にかかって仕方がなかった。
あとは、ただ、促されるままにすべてが進行していった。その行為の意味を考える間もなく、形式的に儀式の動作を済ませていく。黙ってかしこまっていればよかったので、本来なら、喜久子にとって、どうということのない一日のはずであった。
しかし、宴後、新居となる家に戻った時には、緊張感と不安が行き場所もなく身の内にたまり、喜久子はすっかり疲労困憊していた。しかも、緊張はこれで終わったわけではない。
今までならば、どんなに気が重い用事であろうと、家に帰って部屋に一人になってしまえば、ほっと一息できた。しかし、もう帰るのはそこではないのだ。
新居といっても、そこにはすでに一月前から板垣と彼の継母が住んでいた。慎ましい借家で、わずかな家具の他はほとんど道具らしい物はなかった。かと思うと、押入を開くと本が山となっていたりする。蒲団を出そうとして、喜久子は驚いた。
「何もない家だし、贅沢をする気もないけれど、本を買うのだけは惜しまないでくれ」
そう言う板垣に、喜久子は素直に頷いた。喜久子も、趣味といえば読書と作歌ぐらいで、本以外の物質にはあまり関心がないほうである。その点では、夫を理解するのに反発を感じる必要もなさそうであった。
しかし、今は「その点」などよりも大きな懸案事項が、目の前に横たわっている。
蒲団を敷く手が震えた。壁に掛かった時計の音が、いやに大きく頭に響く。それよりもさらに大きな音で、自分の心臓が高鳴っているような気がする。蒲団を敷ききってしまうのが、少し怖い。
喜久子がのろのろと蒲団を敷いていると、板垣がもう一組の蒲団を手早く敷きのべてしまった。
心の準備の時間を奪われた喜久子は、呆然とすくみ上がった。
「今日は疲れたでしょう。休んでください」
板垣にそう言われて、喜久子は拍子抜けしてしまう。必死に気を張りつめて、身構えてきたというのに、灯りが消され、彼は蒲団に入ってしまう。しばらくは何を言われたのかも分からなかった。
少しほっとして、喜久子も蒲団に入ったが、なんだか落ち着かない。
これでいいのだろうかと、心臓が激しく跳ねている。
だいたい、寝ようにも、眠れなかった。
とりあえず、彼に背を向け、横たわったが、背後の気配が気になって仕方がない。もともと、誰かと同じ部屋で休むことに慣れていないのだ。
このようなことは、自分が心配することではないのかもしれない。
しかし、一生に一度の記念すべき日がこんなことでは、後悔すると思った。こんな風に考えているのは自分だけなのだろうか。
だいたい、板垣は何を考えているのだ。
こんな時に、何もしないなんて、本当は喜久子のことを好きではないのだろうか。そんなことには耐えられなかった。
「あの」
蒲団の中で、背を向けたままだったが、勇気を持って、声を振り絞った。
「私……平気ですから」
何を言っているのか、自分でも訳が分からなかった。顔から火が出そうだ。
彼が体を起こす気配に、喜久子は思わず体を縮こまらせた。
これでは、自分が誘ったみたいではないか。
喜久子は、どちらにせよ後悔する日になりそうだ、と思った。
夢を見た。
目が覚めたら、理由は分からないけれど、泣きたくて仕方なくなる、そんな夢だ。
悔しくて、悲しくて。目が覚めるとひとしきり泣く。
喜久子は、広い草原の真ん中に立っていた。
周りはただただ草がたなびき、他には何もない。太陽がやたらまぶしくて、動くことができない。彼女をここに置いていった人が、どんどん小さくなって、やがて光に押しつぶされて消える。
そして、喜久子は泣いた。
これは夢だ。思い切って目を開ける。
こんな夢を見た日には、蒲団の中でひとしきり泣くのだが、もうそれもできなかった。
一人ではないという実感が、不安と一緒に体を包み込んでいる。
そして我に返って、途方もないことをしてしまったかのような喪失感が、喜久子を襲った。
これでよかったのか、分からない。頭が混乱していて、恐ろしくて、蒲団をかぶってすすり泣いた。
彼に気づかれたくないと、必死に声を殺したが、しゃくり上げるのが止まらない。
そのうち、いつの間にか再び夢の中に戻っていた。
草原の中、誰かが迎えに来てくれたような気がした。しかし、目が覚めた時には覚えていなかった。
ただ、幸せな夢の余韻だけが残っていた。
それでも、目覚めが最高だとは思えなかった。頭がぼんやりして、夜のうちに泣いた名残が胸の下の方に残っている。
隣の蒲団はすでに上げられていて、部屋にいるのは喜久子一人だった。どういう態度をとればいいのか分からなかったので、この状況には感謝した。
しかし、起きあがりたくなかった。起きあがれば、一日の時間の流れが始まってしまう。このまま時が止まってしまえばいいのにとさえ、思う。
普段と違う、掛け蒲団の感触が、喜久子を寝床の中にしっかりと留めていた。それでも、なんとか蒲団の中で乱れた寝間着をたぐり合わせ、おそるおそる起きあがる。
着替えのため、手に掛けた箪笥は、喜久子が実家から持ってきたものだった。使い慣れているはずのその箪笥の隣に、別の箪笥があって、鴨居には軍服のかかった衣紋掛けが吊されている。
喜久子はどうにも落ち着かないまま、着物を身につけ始める。余計なことを考えないようにつとめた。しかし、突然、部屋の外から呼ばれると同時に襖がするすると開き、喜久子は必要以上に驚いた。
例えようのない悲鳴をとともに、肩に預けていた締め途中の帯を落とした。
振り返ると呼びかけた方が逆に驚いて、硬直している。
「ごめん」
喜久子は、真っ赤になった。不意をつかれたから吃驚した、というより、潜在的に恐れている事に逢うと、こういう奇特な反応をしてしまうのだった。といっても、このとき、喜久子にそのような冷静をする余裕はなかった。どうしていいか分からなくて、とりあえず帯を手に取り直して、締めた。
その間に、夫は目的を思い出したらしく、喜久子に向かって、
「おはよう」
と言った。
「おはようございます」
喜久子は慌てて膝をつき、挨拶を返した。
彼の雰囲気が、いつもと変わらないことに安心感を覚えた。今までのどれが「いつも」だったのか、これから、何が「いつも」になるのかは深く考えないようにして、今の感情に身を任せる。すると自然と、恐怖や嫌悪感が消えていくのを感じた。
この朝から、喜久子は板垣征四郎の妻になった。