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この手にぬくもりを

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 つまり、たくましい、は長生きしそう、という評価なのか、と喜久子は納得した。確かに、若くして病死する自分は、想像できない。今まで生きてきて、大きな病気もしたことのない、いたって健康優良児だったのだ。
「じゃあ、私は簡単に死んだり出来ませんね」
 喜久子が冗談めかして言うと、板垣は軽く頷いた。
「出来るなら、僕よりも先に死なないで欲しい、とお願いしたい」
 期せずして壮大な言葉になったことに、話し手も聞き手も気がついて、しばし沈黙が流れる。
 分かりました、と返事をしようとして、喜久子はぎくりとした。彼の言葉をもう一度頭の中で分解して、気付く。
 つまり、遺されるということだ。先立たれる、死なれる。
 ……お父さまのように。
 喜久子の視線が下方に落ち、表情に陰りが差す。
「うちは長生きの家系なので、難しいかもしれないけれどね」
 板垣は、少し苦しいフォローだ、と思いながら言った。軍人という職業に就いていて、自然寿命を云々するのも、気休めだ。
 喜久子はそんな板垣の懸念には、気がつかなかった。
「分かっています。軍人さんに嫁ぐのですから……ずっと母のことを見ていましたし、覚悟は出来ています」
 覚悟、って何だろう。何を覚悟しているのかは、敢えて考えないようにして、喜久子は台詞を読み上げた。嫌われない為には、こう言うのが一番いいと思ったのだ。戦争なんて起こらないかもしれないし、例え戦争があったとしても、生きて帰ってくる人はたくさんいるのだ。戦死するとは限らない。こう考えなければ、誰が軍人の妻になんてなるのだろう。

「軍人だからって、死ぬとは限らないよ」
 頭を下げた喜久子の肩が、痛々しかったので、板垣はそう答えた。
 そう、戦争に行っても死ぬとは限らないのだ。
 板垣の右臑には、銃創の痕がある。日露戦争の折出征し、受けたものだった。この負傷のおかげで、板垣は参戦早々に後方に送られることになってしまった。自分が負傷してもなお前進しようと無理をしたために死んだ部下もいた。
 さらに、大越少佐戦死の噂を野戦病院で聞いたとき、ろくに役割も果たせず、死にもしなかった自分が腹立たしかった。
 死にたいと思って戦争に行ったわけではなかったが、あそこで死ねるなら本望だ、と考えていた。初めての出征、しかも士官学校を出て半年もしない新任少尉だったから、浮かされていた部分もあったのだろう。今同じようなことが起こっても、同じように感じるのだろうか。
(大越生徒監殿は、死にたいと思ったのだろうか)
 亡くなる半年以上も前に、すでに遺書を書いて自宅に送っていたと言うが、それは死ぬつもりだったのか、死ぬ覚悟だったのか。待っている妻子もあったのに。それは、板垣が軍人という職業を続けていき、喜久子の夫として生きていく上で、重要な命題だという自覚があったが、今は考えたくはなかった。
 やりたいこと、やるべきことがたくさんある今、死にたいなどとは到底思えない。
 そして何より、これから見たい未来があった。
 意識して考えるでも、誰かの助言を思い出したのでもなく、板垣はこの時自然と体が動いた。
 彼女に手を差しのべる。
「ついてきて欲しい」

 喜久子は、差しのべられた手を前に立ちつくした。
 それはいつだったか、喜久子が夢に見た光景だった。桜が舞う春の空の下で、誰かが喜久子を選んでくれるのだ。
 この手を取れば。
 この、自分だけに向けて差し出された手を取れば、ずっと欲しかった物が手に入るのだ。思いやり、自分を愛し、守ってくれる、一生の味方。何があっても、どこにいても、帰る場所と、待つ場所がある人生が始まる。無条件で共にあってくれる相手を得る。
 会ったとたんこの人だ、と感じなくとも、この瞬間さえあれば良かったのだ。今なら迷うことなく信じることが出来る。
 この人なのだ、と。
 この手を取りさえすれば、幸せになれるのだと、何かがそう告げている。
 それが直感なのか、単なる幻想なのかは、分からない。
 でも、一つだけ確信があった。
 ……もう一人ではなくなる。
 喜久子は、彼の手を取った。


作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら