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この手にぬくもりを

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 結婚した暁には、姑と同居を覚悟して欲しい、と先方から告げられたのは、大正五年も暮れようとする頃だった。
 陸軍大学校を無事卒業した板垣が、隊付任務に戻るため仙台へ発つ前に、大越家に挨拶に来た折りである。
「四男さまだと伺っておりましたけれど」
 母の庸子がやんわりと聞き返す。板垣は頷いた。
「長兄は早くに死去いたしまして、下の兄二人は九州やら大陸やらを飛び回っている身で……母は、父が死にまして以来、東京に出てきたいとかねがね申しておりました。これを機に私の家で暮らさせたいと考えています」
 母親としては、娘を姑と云う存在からなるべく離れた嫁ぎ先を求めていたのだろう。庸子は戸惑いを隠せないでいる。
「私は、軍務で家を空けることが多いでしょうから、喜久子さんを一人にするよりは、母にいてもらった方が、何かと……」
「それはそうでしょうけれど」
「苦労をかけるだろうことは、想像がつきます。私も力を尽くしますので、よろしくお願いいたします」
 お気に入りの婿殿に頭を下げられて、庸子は頷くしかないのであった。
 喜久子は母の傍らで、黙っていた。巷でよく聞く嫁姑の問題を思うと、不安にはなったが、なるようにしかならない、という気持ちだった。
 ここで嫌だと言ったところでどうにもならないし、我が儘を言うのはマイナスだ。喜久子は、今後彼が何を言ってこようと、従うつもりであった。
 だから、停車場まで見送りをする際に、板垣にはこう言った。
「母は気乗りしないようですが、私は構いません」
 それなりに覚悟を決めて言ったのだった。
 しかし、話を聞いてみると、そう単純な問題でもないようだ。
 喜久子の姑になる板垣の母というのは、継母だという。
 板垣の実母は、彼が生まれて半年も経ずに亡くなった。赤ん坊だった彼自身には、実母、継母の区別はなかったが、母、そして父や兄達の意識は違ったらしい。板垣は父母と離れて、兄姉と共に、主に祖父の家で育てられた。その為、板垣はその継母を母と慕った記憶が薄い。母にも、自分が産んだのでもなく、親しく育てないままに手元を離れてしまった息子に対して、遠慮があると思っていた。だから、母からの同居の申し入れは、正直、嬉しかったという。
「そんなに気にしなくても良いと思うよ、僕はかわいい息子と言うわけではないからね」
 と言ってから、板垣が喜久子の表情を伺うと、彼女は少し笑った。
 板垣のもとへいくと決めてから、自分は随分変わったと、喜久子は思う。
 悪い方ばかりに解釈していた相手の言動を、全くひっくり返して、自分でも呆れるほど好意的に解釈するようになった。
 喜久子とだから結婚したいと思った、という彼の気持ちを、信じることにしたのだ。そもそもが、疑心暗鬼になりたくないから、確証が欲しかっただけなのである。自分を選んで妻にしてくれるのだから、そこには深く純粋な愛情が存在しているのだと、喜久子は思っていた。
 その感情に浸るのは心地よかった。姑と同居だろうと、そうでなかろうと、結婚すれば幸せな毎日が始まるのだと、希望が持てる。
 今はこうやって会うのにも緊張するし、どう反応していいのか分からなくて、戸惑うことも多い。
 これも結婚して夫婦になる頃にはなくなってくれるのだろうか。喜久子は、婚礼の日迄の時を、頭の中で測る。彼はこれから仙台に赴任してしまい、春先まで戻ってこないのだ。
 それは、寂しいことなのだろうか。
 よく解らない。今までも、一月に一度挨拶に来る位だった。その時は嬉しいような気もするが、会えないときに胸が焦がれるとか、そういうことはない。想像していたのと違うと感じながら、想像していたものはもっと先にあるのだと期待しているような、微妙な感情に喜久子は揺れていた。
 きっと、結婚すれば、こんな風に悩むこともなくなるのだろう。
 そう信じて、喜久子は板垣を見送った。


 停車場へ向かう途中の土手に、桜の並木道があった。
 その時は、すっかり葉を落とした枝が広がっているだけだったが、彼はそれを見て呟いた。
「これが咲く頃には、東京に戻ります」
 桜の枝は寂しく、風は冷たく、それはずっと先のことのように思えた。
 しかし、過ぎてしまえばあっという間だった。
 桜は咲き、約束通り板垣と再会し、結婚式が数週間後に迫っている。
 喜久子は焦りを感じていた。長いと思っていた結婚までの時間に、自分の意識も二人の関係も何も進展していないことに気がついたからだ。結局今も、喜久子は板垣に何を言っていいのか分からず……というより、余計なことを言って呆れられては、と思うと何も言えなくなってしまう。
 婚約者が戻ってきたのだから、もっと、感動的な再会があってもいいのだけれど。
 自分達はまだそこまでの段階に至っていないから、何も起こらないのだと思う。きっとこれから先は、色々なことが起こるのだ。夫婦になるのだから。満開の桜から、白い花びらがはらはらと落ちてきて、舞台だけはとても叙情的だった。
 そんな喜久子の空想は、板垣の声に打ち切られた。
「やはり以前に、健康でたくましいと言ったこと、気に障りましたか」
 急に話が飛んだので、喜久子は返事に詰まった。そして、この場の雰囲気に全くそぐわない、その台詞に少なからず落胆した。しかも、「たくましい」というのは初めて聞いた気がする。あの時、実際はそこまで思っていたのか、と考えたら、苦笑するしかなかった。
「後になって、あれはひどいと色々な人に言われてね。僕は純粋に褒めたつもりだったんだけど」
 どうして突然半年以上前のことを持ち出すのか、しかも色々な人間にどこまで言いふらしたのか、喜久子は恥ずかしくなって俯いた。半年前のことは、喜久子がとった態度も悪かったと反省していたし、もう結婚することにしたのだから、あまり触れて欲しくない話題だった。
「いいんです。私は本当に、丈夫なだけで……器量よしでもないし、不器用で」
 何より子供っぽい。プレッシャーが恐ろしくて逃げたのも、いちいち悪い方にとってわがままを言ったのも、自分が幼いからだ。色々なことを考えて、悩んで、自分では大人なつもりだが、自分の行動を冷静に振り返ると、いつも、子供っぽいところが目に付いてしまう。
「もちろん、それだけだ、といっているわけではないよ。でも、僕は健康だ、ということは大事だと思う」
 彼の言葉に、喜久子は頷いた。もともと丈夫に出来ている喜久子は、あまり健康のありがたみを実感することはないけれど、理屈では分かる。
 しかし、あの時喜久子が嫌だったのは、そう言う問題ではない。お見合い相手に向かって言うような言葉ではないと、喜久子が感じた、ということだった。その辺りの気遣いとか、気の利いた台詞とかを求めていたから、がっかりしたのだ。
「母は、線が細い人だったそうでね」
 だから、丈夫で健康そうな人が良かったのだと、板垣は笑った。
「それに、継母って、印象が良くない部分があるでしょう。自分が大人になったら、絶対結婚は一度きりにしようと思ったもんです。いつの間にか、一回もしない、になってしまったのだけどね」
作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら