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屋上へ来た和真にまず爽太はこんな寒い場所に呼び出したことを詫び、それからやや婉曲的な会話から入ることにした。
話題は和真の幼馴染のこと。そんなにいいものか、という爽太の問いに、和真は深々と頷いた。
「あんなに俺の全部を分かってくれる子は他にいねえ」
とのこと。確かにそれはそうかも知れないが、それは今まで一緒に過ごしてきた年季の問題が多分にあるわけで。今がそうだからといって今後そういう人が現れないということにはならないのではないか。
屁理屈じみたことを言った爽太に和真は呆れたようにため息をついて、それからこう言った。
「お前らしくねえな。言いたいことがあるんだったらさっさと言ったらどうなんだ」
意中の幼馴染のことをあれこれ言われたからだろう。その言い方に少しばかり険を感じたのは気のせいではないと爽太は思う。
「悪かったよ」と前置きして、言われたとおりに爽太は本題を口にする。
「奈央のことだよ。お前も気付いてるんだろ? あいつの気持ち」
和真は驚きもしなかった。小さく「ああ」とため息のような返事をして、屋上のフェンスにもたれかかる。
「やっぱりそのことか。お前もなかなかおせっかいなやつだねえ」
「ま、否定はしないよ。それで、どうかな? 少しはあいつのことも見てやってくれないか?」
和真は手を頭の後ろで組んで、少しだけ目を細めた。
「見てるよ。いつも」
「え?」
意外な言葉に、思わず爽太は声をもらす。もちろんこの場合、見ているというのは単に顔を合わせているというだけではなくて――
「あいつは一見すると乱暴であまり女らしくないように見えるけど、実は真っ直ぐで純真なかわいい奴だ。一人の女の子として魅力的だと思う」
何故かそこで爽太の胸がちくりと痛んだ。
自分で自分が信じられない。まさかこの期に及んでまだ何かを期待しているのか。
「だったら――」
「でも、やっぱり駄目だ。どんなに言われたって俺は麻衣子以外の女の子にそういう感情を向けられねえ」
麻衣子、というのは確か和真の幼馴染の名前だ。和真はあまり爽太たちの前でその名前を出すことはしないのだが、今は意図せず出てしまったのだろう。
「どんなに頼んでも無理か? あいつは今までずっとお前を――お前だけを見てきたんだぞ?」
「ああ。分かってる。分かってるけど、こればっかりは人に言われたところでどうにかなるようなモンじゃねえからな。それはお前にもよく分かるだろ?」
一瞬、どういう意図で和真がそう言ったのかが分からなかった。
「いい加減、無理すんのはやめろよ。もし俺が『じゃあ奈央と付き合うことにする』って言ったらお前はどうするつもりだったんだよ?」
頭が真っ白になる。
「それは……もちろん、おめでとうって奈央に……」
――やめろ。
「うそつけ。そんな聖人君子みたいなマネがお前にできるかよ」
――言うな。頼むから、やめてくれ。
「素直になれ」
――何故分からない。他の誰よりも、お前が。お前がそれを言うなんてことは、絶対に――
「好きなんだろ? 奈央のこと」
「――っ!」
その時、自分は何かを言ったのだと爽太は思う。憤怒、嫉妬、憎悪、そんな汚いものにまみれた何かを確かに口にしたはずだ。音が聞こえなかったのは、あまりにもその言葉が汚すぎて日本語では発音することすら出来なかったからだ。
「さっきも言ったけど、あいつはかわいくて魅力的な女の子だ。お前が惚れちまうのも分かる。だけど、俺には麻衣子が居るから」
ちり。ちり。
炎が心を焦がす音がする。
「ちょっとキザかもしれねえけど、天の配剤ってやつなんだろうさ。あいつの相手役は俺じゃねえ。お前だ」
――黙れ。今まで、俺がどんな想いで。どんな想いで奈央のことを。
「……なんだよ」
ぷちり、と爽太の中でなにかが切れた。
「ふざけんな! チョーシこいてんじゃねえ!」
殴りつけるような勢いで和真の胸ぐらをつかみ上げた。
「なんなんだよそれ! 完璧に勝者の理論じゃねえか!」
いきなりキレるとは思わなかったのだろう、和真は息をのむような表情で爽太を見ている。
偉そうに講釈をたれていた訳知り顔を歪めてやれたというだけでもほんの少し溜飲が下がったが、当然ながらそれだけで収まりがつくはずがない。場所と時間もわきまえず、爽太は声を荒げる。
「お前がどう思ってるかはしらねえけどなぁ! 奈央は、奈央は――」
「やめてよ!」
ふいに、第三者の声が聞こえた。
「やめてよ!」
ろくにものを考えることもできないまま、奈央は屋上に飛び出した。
どうすればいいかなんて分からない。とにかく目の前で起こっていることを今すぐに止めたかった。
「みっともないよ、爽太! こんなのあんたらしくない!」
言っていることの意味なんて理解できているはずがない。ただひたすら衝動に身を任せて口にする。
「意味わかんない! なんであんたが怒るのよ! 和真はただあんたを、あんたのことを思って!」
呆けたようにこちらを見ていた爽太は、やがてそろそろと和真に掴みかかっていた手を離した。それでようやく、奈央の頭も少しは冷える。
「悪かった」と爽太が言って、「いや」と和真が答える。一度大きく息を吐いて、爽太は全身から力を抜いた。
とにかく止められてよかった。奈央はまだそれだけしか考えられない。あれだけ猛っていた爽太が何故こうも間単に静まったのか、そんなことは考えようともしていなかった。
やがて爽太はゆっくりと歩き始めた。目を合わせようともせずに奈央の横を通り過ぎ、そのまま出入り口へと向かう。
「ま、待ってよ」
奈央が慌てて言っても、振り返ることすらしない。
「ねえ爽太、待ってよ。お願いだからちょっと待――」
「うるさい!」
叫びつつ、爽太は屋上のドアを殴りつけた。がつん、という大きな音に、思わず奈央はびくんと首をすくませてしまう。
「奈央。どこから聞いてた?」
「……え?」
本当に何のことか分からずに、奈央は呆けたように聞き返す。
「聞いてたんだろ? 俺と和真が話してるの。結構長い間話してたはずだけど、どの辺りから聞いてたんだ?」
「あ……」
ふいに最初に聞いた台詞が頭に蘇ってきて、それと同時に自分が言ったことの意味も徐々に分かってくる。
――私、なんて酷いことを。
何か言い繕わなくてはと思って、一度言いよどんでしまった時点でもう無意味だと気付く。
奈央は既に言ってしまったようなものだ。聞いていたと。大事な部分――たぶん爽太が今までひた隠しに隠してきた、一番聞かれたくなかったそのことを。
「あの、あの……私、その……」
「いいんだ。何も言わなくていいから、今は一人にさせてくれ」
それだけ言い置いて、爽太は階段を降りていってしまう。奈央は凍りついたようにその場から動けない。
「なあ、奈央。俺が言えた立場じゃないかもしれねえけど――」
和真の声が背中から聞こえる。
「あいつが怒ったのはお前のためだと思う。奈央はそんなに安い女じゃないって、あいつはきっとそう言いたかったんだ」