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いきなり話題が変わったので、爽太はちょっと不思議に思ったようだ。ずっと前に向けたままだった視線を、その時になって初めてこちらに向けた。
「どうしたんだよ、急に」
「いや、さ。今さらなんだけど、私、和真のことばっかり考えててそこまで頭が回ってなかったっていうか……卒業したらあんたともお別れなんだって思ったら、ちょっと……ね」
爽太はなんだか困ったような、それでいて呆れたような顔をする。
「ホントに今さらだな。もうすぐ高校生活も終わりなんだから、ちゃんと心の準備しとかないと卒業式で大泣きするハメになるぞ?」
少しおどけたような口調で言う爽太の姿に、なんだか奈央は余計に胸がつまってしまう。下を向いて、膝の間に顔をうずめるようにしながら奈央は言葉をしぼり出す。
「寂しい、よね?」
爽太にも同じ気持ちでいて欲しい、と思った。唐突に芽生えた別離への想いは急激に奈央の心を支配していく。なかば恐怖に近いようなその感情に、すがるような思いで奈央は口を開いた。
「でもさ、あんたの進学先って横浜でしょ? 私は東京だから電車で三十分くらいしか距離だし、離れ離れってわけじゃないよね? またいつでも会えるんだよね?」
何なのだろう、これは。中学校のときは卒業式の当日ですらこんな気持ちにはならなかった。それだけ自分が爽太たちと過ごすあの時間をかけがえのないものだと感じているということなのだろうか。
下を向いたまましばらく待ってみても、爽太からは何の言葉も返ってこない。不安になって顔を上げてみると、相変わらず内心を悟らせようとしない爽太の横顔がそこにあった。
どうして何も言ってくれないのだ。爽太は寂しくないのだろうか? 爽太にとって、自分達との仲は所詮高校の間だけと割り切ってしまえるものなのだろうか?
奈央がそこまで考えたところでようやく爽太は視線に気付いたようで、奈央と目を合わせてゆったりと微笑んだ。
「お前さあ、そんなこと言ってる場合じゃないだろ? もし和真とうまく行ったら遠距離恋愛しなくちゃいけないんだから、そっちを心配するのが先じゃないか」
ぐずる子供をたしなめるような大人びた口調。なんだかそれが余計に奈央の寂しさを募らせた。
――いやだ。私が聞きたいのはそんな言葉じゃない。
今は和真のことなんてどうでもいい、とすら思った。何故そんな普通にして居られるのか、それが分からない。
「え。おい、ちょっと奈央?」
奈央がそれを自覚したのは、まるで信じられないものを見たような爽太の声が聞こえたのよりもあとだった。
頬を伝う、冷たくて温かいもの。
涙。
思わずはっとなって目を閉じ、こみ上げてくるものを必死に押し留める。
でも無理だった。次々と零れ落ちてくるそれを爽太に見られたくなくて、奈央は勢いよく立ち上がる。
「爽太のバカ!」
涙声にならないように声を張り上げて、逃げるようにしてその場から駆け出した。
どうしてなのか自分でもよく分からない。だけどむしょうに悲しくて、むしょうに腹が立った。
※
昼間の出来事を愛華に話してみたら、「それは爽太くんが悪いよ」と言われた。
「私たちって普通の友達関係とは違うでしょう? だから誤魔化すんじゃなくてちゃんと応えてあげないとダメだよ」
何も特別な言葉なんていらない。爽太自身の気持ちでよかったのだという。
でも、「爽太自身の気持ち」とは一体なんなのだろう。今この心にあるのは友情なんてものとは程遠い、もっと醜くてドロドロとした感情だ。そんなものを奈央に向けてみたところでかみ合うはずがないではないか。
そして、何より。あの奈央を見て。爽太と別れるのが寂しいと言って泣いた奈央を見て、よりにもよって自分は何を思った?
「嬉しい」と。涙を流すほどの情を奈央が自分に向けてくれていたと知って、心のどこかでは歓喜していたのではないか。自分のせいで奈央を泣かせてしまったのにも関わらず、だ。
だから、このままでいいのだと思う。このまま奈央が自分のことを嫌いになるのであれば、そのほうがしがらみは少なくなる。四人の関係が壊れてしまえば、あとに残るのはそれぞれの個人的な感情だけなのだから。
夕食が済んで夜も更けはじめる時間帯、爽太はメールで和真を屋上に呼び出した。文面には単に「話したいことがある」とだけ書いたが、わざわざ呼び出すのだから何か大事な話をするのだとは察してくれるはずだ。
夜の屋上、吹きつける風は真冬そのもの。着込んだコートの隙間から入り込んでくる冷えきった空気に身震いしながら待っていると、程なくしてドアの開く音がした。
「よう」
現れた待ち人に短く声をかけながら、ふと思う。
――こいつと真面目な話をするのなんて、ひょっとしたら初めてかもなあ。
※
底冷えする空気に身を震わせながら奈央は廊下を歩く。目指すは爽太の部屋だ。
今日のは間違いなくこちらが悪い。心配してくれたからこそ爽太はあんな言い方をしただけなのに。訳の分からない感情に突き動かされて、実に理不尽な罵倒をしてしまった。
もちろん爽太に向かって「バカ」と言ったのはこれが初めてというわけではないが、冗談交じりに言うのと今日の昼間のとでは意味が全く違う。今回ばかりはきちんと反省して謝らないといけない。
でも、と奈央は思う。悪いのは果たして自分だけだろうか。心配してくれているのは分かるが、だからといってあそこであんなことを言うのは酷くないだろうか? 爽太ならばあのとき奈央がどんな言葉を求めていたのかは分かっていただろうに。
だから、爽太に会ったらまずはきちんと謝って。その上で向こうからも謝ってもらって。それで元の関係に戻る。そうでないと嫌だ。確かに高校生活はもうすぐ終わりかもしれないけど、人生はまだまだ続いていくのだから。
爽太の部屋の前まで来て、いざノックしようという段階まできたところでなんだか急激に緊張してきた。
どうにも気まずくて、あれ以来爽太とは一言も話していない。夕食のときに顔だけは合わせたわけだが、食べているあいだは終始無言で突き通した。
そんな次第でなんだか後ろめたい部分がなくはないのだが、二人だけで話せばなんとかなるはずだ。いいや、なんとかしてみせる。
勇気を振り絞ってドアをノックしてみる。コンコン、と無機質な音が廊下に響く。
少し待ってみたが応答はない。もう一度ノックしてみても結果は同じ。試しにドアノブを回してみると鍵がかかっていた。爽太は自分が部屋に居るときに鍵をかけたりはしないから、どこかに出ているのかもしれない。
ふと、爽太の日課というか習性を思い出す。そうだ、屋上かもしれない。
今しがた降りてきたばかりの階段を今度は上がり、三階を通り越してさらに上へと。見れば、屋上へ繋がるドアが半開きになっている。こんな寒い季節に屋上へ来る住人がそう何人も居るはずがないから、どうやら正解だったようだ。
残りの階段を駆け上がって、屋上へ出ようとしたちょうどその時。
「好きなんだろ? 奈央のこと」
和真の声が聞こえて。とっさに奈央はドアの陰に身を隠した。
※