ベクトル
愛華はまた顔を上げて、爽太の顔にじっと視線を向けてくる。しばし無言で見つめ合う二人。やがて気まずそうにふっと目を逸らしたのは愛華だった。
「ごめん。私、綺麗ごとを言ってる」
その声が、なんだか泣くのを堪えているように聞こえて。ああ、また自分はこの子を悲しませてしまったのだと自覚する。
「本当はね、私、爽太くんが悲しむのを見たくないだけなの。もし奈央ちゃんの気持ちが受け入れられなくて、あの子が悲しい思いをしていたら……きっと爽太くんも悲しい顔をするでしょう?」
爽太は何も言わない。否定なんてできないし、する意味もないだろう。
「ねえ爽太くん。お願いだから無理はしないで。もうダメだと思ったら、本当の気持ちを言っちゃってもいいんだよ? きっとその方が楽になるから」
「……分かったよ。無理はしない。約束する」
思わず気圧されそうなほど真摯な瞳を向けられて、爽太はそう言うしかなかった。愛華はほっとしたように小さく頷く。
「それだけ約束してくれるんだったら……いいよ。私はもう何も言わない」
「……ごめん」
「どうして謝るの? 私はそれでいいって納得したから言ったんだよ?」
「それでも、ごめん。本当に、ごめん……」
何度も何度も謝る爽太の隣で、愛華は困ったような笑みを浮かべていた。
※
次の日。今日も今日とて朝のホームルーム後に教室を抜け出した奈央は、図書館には行かずに別のところへと向かっていた。
奈央にとって普段はあまり用のない運動部の部室棟。その一室、男子陸上部の部室に目的の人物――爽太が居るはずだ。さっきメールで確認したところによると今は一人だという。今朝は教室にも来ずにどこかへ行ってしまったので少し困っていたのだが、これならばわざわざどこかへ呼び出す必要もないのでかえってよかったのかもしれない。
ほどなく目的地に着いた奈央は男子陸上部と書かれたドアを探す。この学校はそれほど多様な部を抱えているわけではないので、何の苦労もなくすぐに見つかった。ノックしてみると「開いてるぞー」と間延びした声が中から返ってくる。
男子運動部の部室。よく考えたらそんなのに入るのはこれが初めてだ。一体中はどうなっているのだろうか。
少しためらってから、思い切って扉を開く。
「う……」
とたんに奈央にとってあまり馴染みのない臭いが襲ってきて、思わず鼻をおさえた。汗や土の臭いだけならまだしも、それに混じって漂ってくるこれは何なのだろう。カビというか、むしろ生ゴミに近いような――
「あ、やっぱ臭いか」
爽太はベンチに座って苦笑している。本人は平気そうな顔をしているが、ここが普通ではない自覚はいちおうあるらしい。
ちらりと爽太の足元に目をやれば、なんだかいろんなものが転がっていることに気付く。奈央には何に使うのかよく分からない道具類、漫画本、それに表紙からしていかがわしい――
「和真ならともなく、あんたがそんなの読んでるなんてね」
奈央の視線の先にあるものに気がついて、爽太は「おっと」と慌てたような声を出す。
「まあ男の部室っつーと大抵二、三冊はこういうのが置いてあるモンだ。気にしないでもらえるとありがたい」
要は「自分のものではない」と言いたいらしい。だったら別に言い訳なんてしなくてもいいのに、と内心でくすりと笑う。男は誰でもあいいうのを隠し持っているものだと言うが、やっぱりこの爽太の部屋にもああいうのがあるのだろうか?
「この臭いが嫌なんだったら外に出るか。何か話があるんだろ?」
「うん、まあ」と奈央が頷くと、爽太は外へ出てきて校舎から死角になっているほうへ歩いていく。その後ろについていっていると、なんだか昨日和真と街を歩いたときのことが思い出された。
和真の先に立って歩いていた昨日の自分と、爽太の後ろを歩いている今の自分。そう考えるといかも対照的で面白い。さて、どっちが本当の自分なのだろう?
「このへんでいいか」
適当なところで足を止めて、ちょうど段差になっているコンクリートの足場に腰を下ろす爽太。あれに並んで座れということなのだろうか? 女の子を地べたに座らせるなんて、どういう神経をしているのか。
とか思いつつも、奈央は何も言わずに爽太の隣に腰掛ける。女の子と付き合ったことがない男なんてこんなものだろう。これくらい許してやってもバチはあたるまい。
ふと思う。何故爽太は彼女を作らないのだろう? 別に顔も悪くないし、変な性格をしているわけでもない。実際、爽太と親しい奈央に「神崎君って彼女居ないよね?」と訊いてきた女の子も何人か居た。中には告白までした子も居たはずなのだが、何故だか爽太はずっと彼女居ない暦を更新し続けている。
まあそのおかげでこうやって誰に気兼ねすることなく爽太と二人で話をしたりもできるわけだから、そういう意味ではありがたいのだけど。
「んで、話ってのは?」
爽太の喋り口調はどことなく和真のそれよりも柔らかい。たまに妙な居心地の良さを感じるのはたぶんそのせいと、あとは和真と話すときと違って変に気負わなくて済むからだろう。
「うん。言わなくても分かってるだろうけど、和真のこと。あんたさあ、あいつが好きだっていう幼馴染の子に会ったことある?」
「いや、残念ながら。俺だってあいつとの付き合いは高校に入ってからだしなあ」
爽太は奈央と目を合わすことはせず、じっと前を見ている。いつも思うのだが、この爽太はあまり心のうちを悟らせようとしない。奈央の目にはなんだかわざとそうしているようにも見えるのだが、気のせいなのだろうか?
「そっか。そうだよね。じゃあさあ、その子がどんな子なのかとかそういうのは聞いてない? 男同士でしか話せないこととかやっぱりあると思うし。そういうのがあったら話せる範囲でいいから教えてくれない?」
爽太はあごに手を当てて少し考えてから、ふと口元を緩めた。
「言っていいのかどうか分からないけど……その子と奈央や愛華ちゃんを比べていろいろ言ってたことだったらあったな。聞きたい?」
「うん」と奈央が素直に頷くと、爽太はやはり目を合わせることなく前に向いたまま言葉を続ける。
「顔はそんなにかわいくないとか言ってたな。奈央や愛華ちゃんのほうがよっぽど上だって。性格はどちらかと言えば愛華ちゃんに近いけど、すぐ手が出るあたりなんかは奈央にもよく似てるとか……」
「なにそれ」と奈央は思わず呟いた。顔は奈央も写真を見てある程度は知っているからいいとして、その性格批評は一体どう取ればいいのか。
「もっとあいつを叩けば私も好きになってもらえるってこと?」
どうやらその台詞がおかしかったようで、爽太は小さく噴き出した。
「それだとあいつはただのマゾ男だ」
「そうね」と奈央も一緒になって笑う。
笑ってみて、ふと気付く。そういえば昨日和真と一緒に居たとき、自分は一度も笑っていないかもしれない。小さく笑みをこぼすぐらいはあっただろうが、少なくともこうやって声に出して笑うようなことは一度もなかった。
この違いは何なのだろう。相手に恋愛感情を抱いているかいないか、ただそれだけでは済まされないような気がする。
「私たち、もうすぐ卒業なのよね」