ベクトル
そんな中で何か一つ、この寮で気に入っている点を挙げるとすれば。こうやって屋上が簡易テラスみたいになっていて、二十四時間いつでもそこへ出られるようになっているということだろう。
もう少し暖かい季節だと寮の中でデキているカップルに占領されていたりするこの場所だが、さすがにこんな寒い時期にここへ来るような物好きは爽太だけだ。ゆっくりと考えたいことがあるときなど、爽太は部屋に篭っているとどうしても気が滅入ってしまう性質なのでいつもここへ来るようにしている。
時刻は夜十時を少し回ったところ。爽太は独り、ぐるりを取り巻くフェンスに寄りかかって夜空を見上げている。
今日一日は陸上部の部室で、散乱している漫画を読んだり昼寝をしたりしながら過ごして、放課後は練習にも参加した。受験が終わってからは毎日がこんな生活。おかげですっかり昼夜が逆転してしまっている。今だってちっとも眠くなるような気配すらない。
見上げた夜空には真っ黒なヴェールに覆われていて星一つ見えない。明日は雨か、それとも雪か。
勉強や部活、そしてこの寮での生活。それなりに充実していたと思う高校生活、残された時間はあとわずか。
残りの日々をどうやって過ごすのか。それが問題だ。
今日の昼頃、部室から学食に向かう途中で偶然、校門から並んで出て行く和真と奈央の姿を見かけた。今朝はあんなことを言っておいて、その時二人の様子から思わず目を逸らしてしまった自分が情けない。
あの後二人がどこへ行ったのかは知らないが、夕食の時に見た二人の様子は少なくとも爽太の目には今までと何ら変わりがないように見えた。多分、というか間違いなく何も特別なことはなかったのだろう。
それはそうだ。和真には例の幼馴染が居る。今までに聞かされてさんざん思い知っているが、幼馴染の子に対する和真の思い入れは半端ではない。生半可なことでは――いや、もしかしたらどうやっても奈央の思いは届かないのかもしれない。
もちろん、そんなことは奈央にも分かっているだろう。だからこそずっと告白もできないままここまで来てしまったのだ。
その経緯も何もかも全部知っているくせにあんなことを言う自分は、もしかしたらとてつもなく残酷なのかもしれない。でも――
と、そこまで考えたところでふいにドアの開く音が聞こえて、爽太はずっと上へとやっていた視線を下ろしてきてそちらを見た。
「あ、やっぱり居た」
ドアの陰から顔を見せたのは愛華だった。爽太の姿を認めた彼女は嬉しそうに微笑んで、小走りで爽太の隣へと駆け寄ってくる。
「こんばんは、爽太くん」
背の低い愛華と並んで立っていると、どうしても愛華が爽太の顔を見上げるような形になってしまう。かわいらしい愛華の瞳に上目遣いで見つめられるのだけは何故だかどうしても慣れることが出来ない。何度やられてもそのたびにどきりとしてしまう。
愛華は夕食の時に来ていた黒の長袖ワンピースの上からファー付きの白いナイロンジャケットを羽織っている。どうやらそれでも寒いようで、両手のひらを胸の前で組んで、時おり「はー」と息を吹きかけている。白く染まった愛華の吐息が舞い上がり、やがて夜空に消えていく。
愛華は爽太の左側に並んでフェンスに寄りかかる。爽太は「こんばんは」とだけ挨拶を返して、あとは何も言わない。「何か用?」なんて訊くだけ野暮だ。愛華には特に用事なんてないと分かっているから。
「寒いね」と愛華が言って、「うん」と短く爽太が答える。二人の肩の距離は拳一個分くらい。それ以上離れることもなければ近付くこともない。
「ねえ」
やがて、愛華が静かに口を開く。
「今日、何かあった?」
なんだかずいぶんと抽象的な物言いだ。それでもなんとなく話が通じてしまうのは付き合いの長さ、そして深さ故か。
「ん、何か変だった? 和真も奈央もいつも通りだったと思うけど」
「うん、あの二人は普通だったと思う。あのね、私は爽太くんに訊いてるんだよ?」
爽太は目をぱちくりして、見上げるようにしてこちらを見ている愛華と目を合わせる。彼女の表情はうっすらと微笑んでいるような、それでいて何かを心配しているかのような。
「そっか。俺、そんなに変だった?」
爽太は右手でもみあげのあたりをぽりぽりとかいた。自分としては普通にしていたつもりだったのだが、どうやら隠しきれてはいなかったらしい。
「ううん、『そんなに』ってほどじゃないよ。たぶんあとの二人は気付いてないと思う」
「気付いたのは愛華ちゃんだけ?」
「うん、そうだと思う。だってほら、私は――ね?」
愛華は曖昧な言い方をしたが、何を言いたいのかはよく分かった。気まずいような、申し訳ないような気持ちになって、爽太は何も言えなくなる。
「あ、ごめんなさい。困らせちゃったよね? 私ったらつい余計なことを言っちゃって――」
「いいんだ。悪いのは俺なんだから」
言いつつ、本当にその通りだと爽太は思う。こんなかわいい子に悲しい思いをさせてまで、自分は一体何をやっているのだろう。
「それと、ごめん。実はもう一つ、愛華ちゃんに謝らないといけないことがあるんだ」
それでも、これはもう決めたことだから。なにか決定的なことが起こってしまう前に言っておかないといけないことがある。
「俺たち四人の関係を壊さないようにするって、あの時は約束したけど。本当にごめん。今の俺はそれを自分から壊そうとしてるかもしれない」
じっと、窺うような視線が愛華から向けられる。爽太はそれを真正面から受け止めた。
「奈央ちゃんと和真くんのこと、だよね?」
爽太を責めるようなことはせず、憂いに満ちた声で愛華はそれだけ言う。
「うん。このままじゃいけないと思うから。俺なりになんとかしてみようと思うんだ」
爽太の言ったことを噛み締めるように、愛華は一度視線を地面に落とす。一度まぶたを閉じて何かを考え込み、そしてゆっくりと目を開けて再び爽太の顔を見た。
「奈央ちゃんにはかわいそうだけど……私、和真くんは奈央ちゃんの気持ちに気付いてると思う」
「そうかもね」と爽太は短く答える。
奈央の手前、今朝はああ言ったが、本当は今愛華が言ったことに爽太も賛成だ。和真ならばもうとっくに気付いていてもおかしくない、いやむしろ気付いていないと考えるほうが不自然かもしれない。
「気付いててずっとあの態度なんだよ? 奈央が居たって平気で幼馴染の子の話をしてるんだよ? それなのに、今さら……たとえどんなに奈央ちゃんが頑張ったって、きっと悲しい結果になるだけだよ」
「やってみないと分からないよ。どうせ無理だからってこのまま諦めたんじゃあ奈央がかわいそうだとは思わない?」
「それは……少しは思うよ。私たち、友達だもん」
愛華は視線を落として、自分の足元を見つめながら言葉を続ける。
「だけど、本当に今のままじゃダメなのかな? 今のまま卒業式をして、みんなで抱き合って『ずっと友達で居ようね』って約束して。それじゃあダメなのかな?」
「俺たちの間にあるのが友情だけだったらそれでよかったんだろうけど。だけど、実際はそうじゃないから。それじゃあ誰も幸せにはなれない」
「でも、不幸にもならないよ?」