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まるで同姓の友達を誘うみたいなごく自然な口調で和真は奈央を誘う。三年来の付き合いだから奈央もこんなことでいちいちどぎまぎしたりはしない――はずだ。
ほんのりと胸の奥に湧き上がる、嬉しいような恥ずかしいような気持ち。それにふたをしつつ、奈央は出来るだけぶっきらぼうな口調で言う。
「おごってくれるんだったら行ってあげてもいいけど」
「うーん。まあ俺から誘ったんだから別にそれくらいはかまわねえけど。その代わり食い終わったら俺とラブホ――」
最後まで言わせず、とりあえず蹴りを一発入れておく。そのままさっさと先に立って歩き始めた奈央のあとを、「待ってくれよー」とか情けない声が追いかけてくる。
――まったく。どうして私はこんなやつのことを。
なんだか自己嫌悪に陥りそうな気分だ。
制服のまま街に繰り出した二人はあまり迷うこともなく全国チェーンのハンバーガーショップを昼食の場所に選らんだ。高校生という身分、それと和真のサイフの中身を考えればこれが妥当な選択だろう。
奈央の注文はチーズバーガーのセットとアップルパイ。和真はてり焼きバーガーのセットでポテトとドリンクを一番大きいサイズを注文し、さらに単品でハンバーガーを二個つけた。相変わらずよく食べる男だ。
平日ということもあってか、店内はそれほど混んでいない。二人はゆったりと座れる四人がけのテーブルを選んで向かい合わせに腰掛けた。
食べている間、奈央は終始言葉少なだった。和真はそんな奈央の様子を気にする素振りすら見せず、一方的に喋り続けている。
そんな和真の顔を、奈央はなんともいえない気持ちで見つめていた。
いくら慣れているとはいえ、こうやってまるで恋人同士みたいに二人で向かい合ってるとさすがに少しは意識せざるを得ない。他人の目に、自分達はどう映っているのだろう。恋人同士に見えるのだろうか?
『このままでいいのかな、って』
爽太の言葉が脳裏をよぎる。
そう、このままでいいわけがない。そして今。何かをするとすれば二人で過ごしている今こそがそのチャンスだ。終わりに近付いた高校生活の中で、多分もう残り少なくなっているチャンスの一つが今なのだ。
だけど、勇気が出ない。長い間ずっと溜め込んできたいろんな想いが逆に足枷になって、どうしても一歩が踏み出せない。
こういう時は何に祈ればいいのだろうか。普段からろくに信じてもいないような神様がこんな時だけ都合よく力を貸してくれるワケがないから、お願いするとすれば何か別のものだ。
その時、奈央の頭の中に一人の友人の姿が浮かび上がった。何故だか分からないが、それだけで奈央の心が少しだけ平常を取り戻す。
『好きなんだろ?』
その友人に言われた言葉だ。
否定はしない。確かにこの気持ちは恋なのだと思う。
――だから、あいつの言うとおり。いつまでも縮こまってるのなんて私らしくない。
「あの、さ」
さんざん迷った挙句に奈央が口を開いたのは、もう二人とも自分の注文したメニューを食べ終えてしまって、残るはドリンクだけという時になってからのことだった。
「あんたってさ、やっぱりあの幼馴染の子が今でも好きなの?」
そう。これこそが奈央を躊躇させている一番の原因だ。
その話を初めて聞かされたのはいつのことだったか。奈央がこの想いを自覚するよりも前だったのは確かなのだけど。
この和真には物心つく前からからずっと一緒に過ごしてきた女の子が居て。愛だとか恋だとかそういうものをよく分かっていなかった頃からずっとその子のことを好きで居続けているのだという。
今は別の高校に通っているらしくて奈央は直接の面識こそないものの、その子の写真は和真の部屋にずっと飾られている。ご丁寧に、立派な写真立てに入れられて。
「ああ。ずっと好きだ」
なんの照れもためらいもなく、きっぱりと和真は言う。
うらやましい、と思った。その子が、ではなしに、そう断言できる和真が、だ。この強さこそが自分が心を奪われてしまった要因の一つなのだと奈央は自覚している。
だからなのか、その幼馴染のことを語る和真を見ても不思議と奈央の心は痛まない。もし和真とその子の仲が進展して正式に恋人同士になってしまっても、自分には抗うことすら出来ないだろう。そんな予感が奈央にはある。
「好きだ」と断言されて、何も言えなくなって。せっかくの勇気を振り絞って口にした一言だったのに、いきなり会話が終わってしまった。これでは何の意味もない。
「ええっと――」
取り繕うようにそう言ってから、何かないかと必死に思考を巡らせる。話題、そう話題だ。何か和真の幼馴染に関することで――
「あ、そうだ。ねえ、訊いていい? 前から疑問に思ってたんだけど、あんた、なんでいつまでも中学時代の写真を飾ってるの? 正月とかお盆とか、実家に帰ったときに新しい写真とか貰ってくればいいのに」
そうなのだ。奈央の知る限り、和真の部屋にある幼馴染の写真は初めて見たときからずっと変わっていない。高校に入学する前、つまりまだ中学生だった時に撮られたもののままだ。
「……照れくさくて言えねえんだよ、そんなこと」
気のせいだろうか。
そう口にした瞬間、和真がひどく辛そうな顔をしたように見えた。
それは本当に一瞬のことで、すぐにそれはいつも通りの見慣れた和真の表情に塗りつぶされたけど。奈央としてはなんだか気になって仕方がない。
今のは一体なんだったのだろう? 訊きたいけど、なんだか訊いてはいけないような気がする。
それを目にしてからというもの、奈央はなんだかますます気まずくなってしまって。無言のままドリンクを飲み干すとすぐに店を出て、「行きたいところがあるから」と言ってその場で和真とは別れた。
だけどもちろん「行きたいところ」なんて本当はないわけで。
あてもなく街をぶらつきながら奈央は思う。
やっぱり自分には無理なのかもしれない、と。
※
卒業のシーズンといえば三月の頭。季節としては一応春に入っているとはいえ、まだまだ厳しい寒さが続いている。
それもすっかり日の落ちきった夜、しかも何も遮蔽物のない場所に立っているのだから尚更だ。ガチガチと歯を鳴らして二の腕をさすりつつも、爽太はこの場所を離れる気にはならなかった。
年季が入っていて、あちこちガタが来ていてお世辞にもきれいだとは言えないこの建物。男女混合の寮と聞いて、実を言えば爽太も男だから入学前はそれなりに期待はしていたのだけど。
実際に来てみれば男子と女子はきちんと違う階に分けられていて、女子のフロアになっている三階には踊り場から廊下に入るところにドアが設けられている。そのドアはオートロックになっていて、二十四時間ずっと施錠されたまま。当然ながら合鍵は女子にしか渡されないので、男子は誰かに開けてもらう以外だとドアをぶち破りでもしない限り中に入ることはできない。
いや、別に覗きやら夜這いやらをしたかったわけではないのだが。やっぱりどこか残念な気持ちもあって、爽太にしてみてもこの寮の設備には不平不満が山ほど積もっている。