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同年代の平均身長を上回る背丈の持ち主である奈央の手は、やはり女子としては大きいほうだ。そんな自分の手にもあまるなんて。なんてけしからんものをもっているか、この愛華は。
「何よこれ。あんた、ちょっとは私にも分けなさいよ」
「む、無理だよう。もう許してぇ、奈央ちゃあん……」
弱々しく声を漏らす愛華。相変わらずいじめがいのある娘だ。なんだか楽しくなってきてしまう。
「よいではないか、よいではないか」
ちゃっかりお決まりの台詞を口にしたりもしてみながら。時代劇に出てくる悪代官みたいな気分を奈央が味わっていたところへ、ふいに声がかかる。
「……朝から何やってんだよ、お前ら」
見れば、どうやら歯磨きを終えて部屋に戻るところらしい和真と爽太の姿がそこにあった。ちょうど奈央たちと向かい合うようにして立っている彼らの目には、奈央の手が愛華の胸をわしづかみにしている様がはっきりと見えていることだろう。
「爽太くん、助けてぇ」
と、哀れみを誘うような声で愛華は言うが、肝心の爽太は気まずそうにぽりぽりと頬をかいているだけ。そしてその隣に立っている和真はと言うと、だ。
「奈央、羨ましいことやってんなあ。ちょっと俺に代わってくれよ」
とか言うものだから。ますますやりきれない気持ちになって、思わず愛華の胸をつかんでいる手に力が入ってしまう。
「わ、わーっ! ちょっと、それ以上はホントにダメだってばぁ」
「うるさい。あんたが悪いのよ、あんたが」
「私、なんにもしてないのに……」
奈央たちはそのまま廊下で騒ぎ続けて。
結局最後には寮長がやってきて「朝からうるさい」と叱られたのだった。
※
「あーあ、もう。愛華のせいで朝っぱらから怒られちゃったじゃない」
朝食を終えて、学校へと向かう道すがら。寮に住む四人の三年生は、いつもどおりに仲良く……と言っていいのかどうかは判断に迷うが、とにかく固まっていつもの道を歩く。
「だから、私は何も悪くないってばぁ」
「なーに言ってんのよ。あんたが一番大きい声出してたくせに」
「それは、奈央ちゃんがあんなことするから……」
言いつつ、愛華の顔が真っ赤に染まっていく。この三年間、ずっとこういういじられ役を続けてきた愛華だが、それでも慣れないものらしい。
「でもまあ、奈央の気持ちも分からんでもない。そんなモン見せられたらつい揉みたくなっちまうのが人情ってもんだ。な、そうだろ爽太?」
と、和真。今は女の子二人と和真の三人が並んで歩いていて、爽太はそのあとについていっている形だ。振り向きつつ話をこちらにふってきた和真には何も答えず、爽太はこれ見よがしにため息をついた。
バカ話に加わるつもりはない。その意思表示だ。
「ちょっと。あんたみたいなセクハラ魔神と私を一緒にしないでよ」
実に嫌そうな顔をしながら奈央が言う。
「ん? じゃあなんであんなコトしてたんだよ。あんないいコトをさあ」
「う。それはその……ちょっとした理由があったのよ。理由が」
「ほほう。それはいいことを聞いた。その『ちょっとした理由』ってのがあれば俺も愛華ちゃんのおっぱいを揉んでもいいんだな?」
げし、と奈央が和真の向うずねに蹴りを入れる。
「いいわけないでしょうがこのド変態。てゆーかおっぱいってなによ、おっぱいって。言い方からして既にやらしいのよ」
いわるゆ弁慶の泣き所を蹴られた和真は情けなく「いってえー」とか呻きつつ地面にへたり込んで、恨みがましく奈央を見上げる。
「けっ。大きいおっぱいは男のロマンなんだよ。お前には分からねえだろうさ、この気持ちは」
「分かりたくもないわよ、んなモン」
「いい加減胸の話題から離れようよぉ……」
いつも通りのアホなやりとりをする二人の横で、恥ずかしそうに呟く愛華がなんとも不憫だ。といって、ここで助け舟を出したりしたら間違いなくこっちまで巻き込まれることになる。この三年間で爽太が学んだこと、それは「触らぬ神に祟りなし」である。
ふと。そんなことを考えていたら、いつの間にかこちらを向いていた愛華と目が合った。助けを求められているのか爽太は思ったが、次の一言でその予想はすぐに覆される。
「爽太くん、どうかしたの? さっきから何も喋ってないよね?」
その台詞に、残る二人もふと気がついたように爽太に振り返る。
「そういやそうだな。なんでお前、今日はそんなに静かなんだ?」
「いや、別に。いつもこんなもんだろ」
「そんなことないよ。確かに爽太くんはそんなに騒ぐほうじゃないけど、いつも奈央と和真くんを仲裁してる……とは言えないかもしれないけど、少なくともしようとはしてるじゃない」
「そういやそうよね。なんか今日はいつまで経ってもストップがかからないなと思ったら、あんたが黙ってるからだ」
三人に詰め寄られて、再び爽太はため息をついた。
「俺もこの三年間で学んだんだよ。いつもいつもお前らのペースに巻き込まれてばっかりじゃダメだって」
そう、それだけだ。今はそれでいい。
胸の奥底にある本当の気持ちは、今この場で口に出すわけにはいかない。
学校に着いて、四人はひとまず別れて教室へと向かう。和真と愛華はそれぞれ別のクラス。爽太と奈央は一緒のクラスだ。
教室に入ってクラスメイトたちにひとしきり挨拶したあと、爽太は再び奈央のところへ行く。学校での時間こそが、和真たちと一緒に居るときには出来ない話をするチャンスなのだ。
「奈央、ちょっといいか?」
早速クラスメイトたちと談笑を始めていた奈央は、それを中断させられてちょっと不機嫌そうな顔をする。それでも「話がある」と言うと素直についてきてくれるあたりが奈央らしさだと爽太は思う。
「なによ、なんか大事な話?」
教室の隅に連れてこられた時点で奈央もなんとなく察したようだ。心なしか声のボリュームを抑えながらそう言ってくる。
「ちょっと、な。あのさ、俺たちってもうすぐ卒業だろ?」
途端に、奈央の表情が少し曇る。いつも勝気な光を宿している瞳が伏目がちになるのを見ると、それだけで爽太の心がざわめいた。
「……それで?」
奈央はそう言うが、爽太が今からどんなことを言おうとしているのか何となく察しているのだろう。表情を見てもそれは明らかだ。
爽太は努めて感情を表に出さないようにしながら言葉を続ける。
「このままでいいのかな、って。俺たちみんなバラバラになっちゃうだろ?」
そう。爽太たちの通っている高校は新学校だから、ほとんどの生徒の進路は進学だ。爽太たち四人はもうみんな入試も済んでいて、それぞれ別の地方の大学へ入学することが決まっている。
何の皮肉か、その中では爽太とこの奈央の進学先が一番近いのだが。今の会話にそれは関係ない。
「だから、なにが言いたいのよ。はっきり言って」
奈央はあくまで分からないフリを続けるつもりらしい。爽太は一度ため息をついてから、意を決して口にする。
「和真のことだよ。好きなんだろ?」
言った途端に襲い来る、胸の奥をちりちりと焼かれるような感覚。
――治まれ。これは自分で考えて決めたことだろう?
「う……ほ、ほんとにはっきり言うのね」
奈央は顔を赤くして俯いている。どうやら否定はしないようだ。