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その台詞で、奈央は当初の目的をすっかり失念してしまっていた自分に気がついた。「そうだね」と笑ってみせると、愛華も安心したような笑みを返してくれる。
「それじゃあさ、爽太くんのところへ行ってあげてよ」
その笑顔のまま言われたものだから、一瞬ごく気軽に「うん」と言ってしまいそうになった。奈央は少し考えてから、「いいの?」と慎重に訊ねる。
「よくはないよ。そりゃあ私にだって悔しい気持ちはあるもん」
愛華は少し下を向いて、それでも気丈に言葉を続ける。
「でもね、たぶん奈央ちゃんじゃないとダメだから。行ってあげて。このままだと爽太くん、次の恋をするのにすごく時間がかかっちゃうと思うんだ」
そんな愛華の態度に、これ以上余計なことは言わないほうがいいと思った。ミルクティーを飲み干して、奈央は静かに立ち上がる。
「ありがとう」と奈央が言うと、「どういたしまして」と愛華は曇りのない笑顔を見せてくれた。それが本心からではないと分かっていても、どこかでは勇気付けられる自分が居る。
愛華の部屋を出て、なんとなく携帯を見てみるとメールが一件入っていた。和真からだ。
『愛華ちゃんとの話は終わったか? 爽太は屋上に居るぞ』
――ああ。本当に私は、いい友達をもった。
※
晴れ渡った夜空。きらきらと瞬く無数の星。
冷たい風を身体に受けながら、爽太はいつものようにフェンスにもたれかかってその光景を見上げていた。
結局自分のやったことは何だったのだろう。爽太は思う。
結果なんて分かっていたくせに奈央を無駄にたき付けて、和真を説得しようと思ったらケンカになって。うまくやれたことなんて一つもない。
所詮は自己満足だったのだ、と思った。どうやったって他人は自分の思い通りになんて動いてくれない。それくらいは分かっていたつもりだ。なのにあんなことをせずにおられなかったのは、やはり何も起こらないまま高校生活が終わるのが嫌だったからだろう。どんな形にせよ、奈央への想いにちゃんとした終わりが欲しかったのだと思う。
だったら素直に告白してフラれてしまえばよかったのに。四人の関係を壊したくない、とか、奈央に迷惑をかけるかも知れない、とか余計なことを考えてしまったからいけなかったのだ。
空に向かって大きく息を吐きかける。白く染まった自分の息が舞い上がって夜空に消えていくのを見守っていると、内側からドアが開いて誰かが屋上に出てきた。
爽太は上を見たまま視線を動かさなかったが、なんとなく分かった。奈央だ。
「爽太」
小さくその名前を呼んで、奈央は爽太の正面に立った。月明かりに照らされた長い髪がさらさらと夜風に揺れている。
まっすぐに見つめられると胸が詰まってしまいそうだったので、爽太は上ばかり見ている。そんな爽太の内心を察したのかどうなのか、奈央は少し体を移動させて爽太の隣に並び、フェンスにもたれかかった。
そこでようやく爽太は視線を下ろしてきて、奈央の姿にちらりと目をやる。奈央のはスウェットとジーンズといういつもの寮での服装の上から茶色のカーディガンを羽織っている。あまりおしゃれとは言えないような格好だが、自分と奈央の関係だとこのくらいがちょうどいいのかもしれない。
「ごめんな」
まず爽太の口から出てきたのはそんな言葉だった。
「四人の関係がこじれちゃったのって、ひょっとしたら俺のせいかもしれない。なんだか俺、余計なことしちゃったみたいだ」
奈央は静かに首を横に振る。
「そんなことないよ。爽太は私のためを思ってああしてくれたんでしょ? そのおかげで私、和真のことはもう踏ん切りをつけられたし。それに愛華とだって仲直りできたからもう大丈夫だよ。きっと四人はこれからも友達で居られる」
その台詞に、爽太はふと思い出す。
「そういやさ、愛華ちゃんと何があったんだ? なんか昨日、今日と険悪なムードだったけど」
爽太が言うと、奈央は言いよどむこともなく語ってくれた。和真に想いを打ち明けたこと、愛華に頬を張られたこと、そしてついさっきまで愛華と話をしていたこと――
「あんたさあ、あの子に誘惑されてよく耐えられたよね」
からかうように言われて、う、と爽太は言葉につまってしまう。
「ちょっとは迷ったんじゃない? このままやっちゃえーとか思わなかった?」
「ヤっちゃえって、お前なあ……」
言われて、奈央は初めて自分の言ったことに気付いたようだ。途端に顔が真っ赤になる。
「と、とにかく! どうなのよ? ちっとも迷わなかったワケ?」
明らかにごまかしている口調だったが、そこには触れないでおいてあげるのが優しさというものだろう。少し考えて、爽太は正直に答えることにする。
「そりゃあ、ちょっとは迷ったけどさ。てゆーか、愛華ちゃんみたいな子に言い寄られて何も感じない男なんて居ないと思うけどな。もし居たとしたらそいつはホモだ。間違いない」
その言い草がおかしかったのか、奈央はくすくすと小さく笑った。
「別にそんなごまかさなくてもいいのに。ねえ、それで? ホモじゃない爽太はどうしてその誘惑に耐えられたの?」
「あ……」
そこまで言われて、ようやくこれが誘導尋問だったことに爽太は気付く。
「いや、それはだって、いい加減な気持ちでそんなことをしちゃいけないし、それにいきなりだなんてそんな――」
爽太がそこまで言ったところで、奈央は大きくため息をついた。
「やっぱりはぐらかしちゃうんだ」
つまらなそうな、ほんの少しだけ悲しみを含んだような声。
「どうしてなの? いつもいつも。校舎裏での時だって、昨日の電話の時だって。どうしていつも私が望んでるようなことを言ってくれないの? 私がどんなことを思ってるかなんて、あんたにだったら分かるでしょ?」
爽太はなんと答えていいのか分からない。一昨日の和真との会話を聞いていたのなら、それがどうしてかなんて奈央はもう知っているはずなのに。
「ねえ」と短く前置きして、奈央は言葉を続ける。
「二日前、ここで和真と話してたこと。あれって嘘じゃないよね? 和真の勘違いとかじゃないよね? お願いだからごまかさずにちゃんと答えて」
懇願するような口調に、さすがに爽太もここははぐらかしていい場面ではないのだと気付かされる。
一度目を閉じて、今までのことを思い出してみる。奈央への想いを自覚したこと、愛華からの告白を断ったっこと。そして、奈央の気持ちが和真へと向いていることに気付いて、諦めると決めたこと。
一つ一つ考えてみて、自分の高校生活のほとんどがその想いでうめつくされていたことに気付く。部活動に精を出していたのだって、体を動かしている間は余計なことを考えずに済んだからだったのかもしれない。
そのくらい。意図せずとも全ての行動の指針になってしまうくらい。
「ああ。俺はお前のことが好きだ」
口にした瞬間、なんだか今までの自分が急激に馬鹿らしくなってきた。たったこれだけ、これだけでよかったのに。どうしてこんなにも長い間悩み続けてしまったのだろう。
「やっと、聞けた」
嬉しそうにそう言いった奈央は、なんだか泣きそうな顔をしていた。