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目の前には愛華が淹れてくれたミルクティーが置いてある。白いティーカップに注がれたそれはほとんど手付かずのまま、もう湯気すらも立てていない。
奈央がこの部屋に来てからもうそれくらいの時間が経っているというのに、まだ二人はろくに話もしていない。女の子らしくファンシーな小物でいっぱいの部屋を重苦しい沈黙が支配している。
まず何と言えばいいのだろう。奈央はずっとそれを考えているのだが、いい言葉がいっこうに思いつかない。
ともかく謝らなければ。それは分かっているのだが、でもなんと言って謝ればいいのだろう? あんたの気持ちを考えていなかった、なんて言ったら余計に怒られそうな気がするし、かと言って単に「ごめんなさい」だけだったら気持ちが篭っていないと思われそうだ。
思考は完璧に堂々巡りに陥っていて、落ち着く場所を一向に見つけることができない。どうすればいいのだろう。時間が経つごとに気ばかり焦ってきてしまって、余計に頭の中がまとまらなくなってくる。
その時、愛華が俯けていた顔をふと上げた。何かに踏ん切りをつけるよう、大きく息をはいてからゆっくりと口を開く。
「ねえ奈央ちゃん、なんでもいいから今思ってることを言ってよ。私たち、友達でしょ?」
奈央は目を丸くして愛華の顔を見る。そこにはいつもと何も変わらない、柔らかく微笑む友人の姿があった。
「言いにくいんだったら私から言っちゃうね。叩いたりしてごめんなさい。たとえどんなことがあったって、あんなことしちゃいけないよね」
――ああ。
奈央は心から安堵すると同時に、頭の中を支配していたもやもやが取り払われていくのを感じた。
そうだ、自分達はもう三年間も深い付き合いを続けてきた親友なのだ。今さら細かいことをあれこれ考える必要なんてあるはずがない。
「私のほうこそごめん。あんたの気持ちを考えもしないであんなことを言っちゃって」
愛華は静かに首を横にふる。
「言ってなかったんだもん。仕方がないよ」
一度ミルクティーに口をつけ、ふと気付いたように愛華は奈央の手元を見る。
「奈央ちゃんも飲んで。もう冷めちゃったかもしれないけど、せっかく私が奈央ちゃんのために入れてあげたんだよ?」
ややおどけた愛華の口調に奈央も口元を緩ませて、ティーカップを手に取り口をつける。
愛華の淹れた紅茶を飲むのはもう何度目になるか分からないくらいだが、やはりうまい。冷めているにも関わらず、ミルクティーの程よい甘みを舌で感じているとなんだか心が落ち着いてくる。
「あのね、奈央ちゃん」
やや遠慮がちな口調で、愛華は語り始めた。
「私、一度爽太くんに告白したの。一年生のクリスマス・イヴにね」
「え?」と思わず愛華の顔をまじまじと見つめてしまう。
――この子、いつのまにそんなことを。
「結果は言わなくても分かるよね? それでさ、その時に教えてもらったの。爽太くんの気持ち」
愛華はみなまで言わなかったが、その時に教えられた爽太の気持ちとやらがどんなものだったのかはなんとなく分かる。
一年生のクリスマス・イヴ。そんなにも前から爽太は自分のことを。じん、と胸の奥に温かいものが広がった。
「でもね、私、諦めることなんて出来なかった。だって、この寮に住んでる限りはずっと爽太くんが側に居るんだもん。フラれてからも、好きっていう気持ちはどんどん募ってきちゃった」
それを聞いて、ああ、と奈央は納得した。
「そっか。そこへあんなことを言われたらそりゃあ腹が立つよね。ごめん、愛華。ほんとに配慮が足りなかった」
奈央は本当に心からそう言ったのだが、愛華はごく軽い口調でそれを否定した。
「違うよ。あの時私が思ってたのは、このままだったら爽太くんを取られちゃうって、ただそれだけ。まあ今思えば確かに奈央の言ったことも都合がよすぎたかなーとは思うけど」
奈央は言葉に詰まってしまう。やっぱりそうなのだろうか? 今すぐに爽太とどうこうなんて考えるのは自分勝手が過ぎるのだろうか。
「だから恨みっこなしね。それに私、ちょっとだけど奈央ちゃんのこと、ダシにしちゃったし」
何のことか分からず、奈央は愛華の顔に視線を向けて先を促す。
「実はね、昨日の夜、爽太くんのところへ行ったの。それで、改めてアタックした。私は奈央ちゃんとは違うって。あなたのことだけを見てあげるって。……ね? 卑怯な言い方でしょ?」
そうか、と思っただけで特に腹は立たなかった。自分が愛華の立場だったら確かにそれくらいは言うかもしれない。
そんなことよりも、その時爽太がどんな反応をしたのかが気になった。
「それでね。それでも足りないって思ったから、私――」
愛華は一度そこで言葉を切って、それからはっきりと言った。
「抱いてって、言った」
ぶっ、と。
ちょうどミルクティーを口に含んでいた奈央は、まるで漫画のようにそれを勢いよく噴き出してしまった。
「きゃっ! もう、汚いなあ。なにやってるのよ奈央ちゃん」
「ご、ごめん。でも、だってあんた……」
まるで信じられないようなものを見るような気持ちで、ティッシュでテーブルを拭く愛華を目に映す。
「そ、それで? 大丈夫だったの? 何もされなかったんでしょうね?」
ふふ、と愛華は行儀よく口元に手を当てて小さく笑う。
「それって変だよ、奈央ちゃん。私は自分からそう言ったんだから、何かされたほうがよかったんだよ?」
なんだか余裕しゃくしゃくな愛華の態度に、なんだかこちらが恥ずかしくなってしまう。自分達だって今時の高校生なんだからこれくらいは普通なのだろうか?
――それにしたって、この愛華がねえ。
普段は大人しい子に限っていざという時は大胆になるものだ、とクラスメイトの一人が言っていたのを思い出す。その時は「ふうん」と適当に聞き流していたが、案外あれは本当のことだったのかもしれない。
「それでもやっぱり駄目だったんだけどね。ああ、改めて思い出すときついなぁ。ひょっとすると一生ものの傷かもね、これは」
冗談ぶって愛華は言うが、それが本心からの言葉だということは奈央にも分かる。そういったことは未経験の奈央だが、そこまでして拒絶されたりしたら女である自分を全部否定された気持ちになるだろうと想像することはできる。
しかもその相手が、高校生活の全部をかけて好きになった人だったりしたら。
「愛華、あんたって強いね」
ぽつりと奈央が言うと、愛華は少しだけきょとんとした顔をした。それからじんわりと理解の色がそこへ広がって、やがてやや恐縮したように小さく微笑む。
「そんなことないよ。今の私がどう見えてるのかは分からないけど、これでも結構落ち込んでるんだよ? 昨夜なんて一晩中泣いてて、今日の晩ご飯までは一歩も部屋の外には出てなかったんだから」
言われて愛華の目元に注目してみるが、涙のあとなんてどこにも見当たらない。一晩泣けばすっきりできるタイプというのがこの世にはいるらしいが、見かけによらずこの愛華はそれなのかもしれない。
「ねえ奈央ちゃん、私たちはもう仲直りしたってことでいいよね?」