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夕食と風呂を済ませて部屋に戻ってすぐのことだった。昨日と同じように、誰かが部屋のドアをノックする音が聞こえた。
まさかまた愛華か? と一瞬だけ思ってしまったが、さすがにそれはないかとすぐに思い直す。
あれから四人の仲は何ら改善されていない。夕食の時だって昨日と同じで誰も口を開こうとはしなかった。さすがにこの状況下で再び愛華がこの部屋を訪れるとは考えにくい。
ドアを開けてみると、やはりそこに立っていたのは愛華ではなかった。というか、そもそもまずこの人物の来訪を最初に想定してしかるべきだったかもしれない。和真だ。
「よう」と和真は短く声をかけてくる。爽太も適当な挨拶を返しつつ「入れよ」と声をかける。
受験のシーズンに入ってからはそうでもなかったが、一、二年生の頃などはほとんど毎日和真は爽太の部屋にやってきて、二人でテレビを見たりゲームをしたりしていたものだ。勝手知ったるなんとやら、和真は迷うことなく部屋の真ん中あたりにある座布団の上に腰を下ろして片膝を立てる。
当然ながら男同士だからいちいち飲み物を出したりもしない。爽太はベッドに腰掛けて、先に口を開いた。
「悪かったな」
と、それだけ。和真もごく軽い口調で言葉を返してくる。
「気にすんな。俺の言い方も悪かった」
爽太は内心でほっと安堵の吐息をもらす。三年間も付き合っていれば当たり前だが、和真とケンカをしたのはあれが初めてではない。その度に行われた仲直りはいつもこんな感じで簡素極まりないものだった。今回はその原因が少し複雑だった少し心配していたのだが、どうやらそれも杞憂だったようだ。
「その話はそれでいいとして、今日の本題はそれじゃねえんだ」
と、和真。爽太は「ん?」と和真の顔に視線を送る。
「お前さあ、分かってたんだろ? 俺が奈央のことに気付いてるって。だったら俺のことを酷い奴だとは思わなかったか?」
「酷いやつ? なんでだ?」
「だってよお、考えてもみろよ。俺は奈央の気持ちを知ってたんだぞ? それなのに平気で他の女の話をして、それでいてはっきりと答えを言うこともしなかった。我ながら酷いやつだと思うよ」
そんなことない、と言おうとして、寸前で思いとどまる。多分だけど、今和真が求めているのはそんな言葉ではない。
「正直に言うとさ。俺はお前らに知っておいて欲しかったんだよ。本当はここに来るはずだったあいつ――麻衣子のことをな」
「ここに来るはずだった?」
その言い方の意味が分からずに和真の顔を見ると、なんだかひどく辛そうにしている親友の顔がそこにあった。
そしてその親友は、爽太が今の今まで聞かされていなかった、重大なことを口にする。
「麻衣子はさ。本当は他の高校になんて通っていない。それどころかもうこの世のどこにもいねえんだよ。つまり、死んでるんだ」
感情が滲み出しているのは顔にだけ。いつも通りの声で事もなげに和真が言ったものだから、はじめ爽太は何かの冗談かと思ってしまった。
「交通事故にあったんだよ。間の悪いことに高校の合格発表の日にさ。よく覚えてる。あいつは用事があるとかで俺だけ先に会場に着いてた。合格者の一覧に俺とあいつの受験番号を見つけてさ。それを教えてやろうと勢い込んであいつの携帯に電話してみたんだけど、何度かけてもつながらねえんだよ」
何も言えない爽太の前で、和真は淡々と語る。本当に何も感じていないわけではなくて、たんに感情を押さえ込んでいるだけだということは爽太にもよく分かった。
「あいつさ、昔から頭悪かったんだよ。成績だってそんなによくなくて、本当ならこの高校になんて入れるはずがなかったんだ。それなのにあいつ、俺と同じ高校に行きたいからって必死で勉強してさ。やっとそれが報われたんだ。あいつの番号を見つけたときは、自分のことなんかよりもよっぽど嬉しかったよ」
隠し切れない感情が徐々に和真の声に混じりはじめた。ほんの少しだけ目が潤んでいるようにも見える。
「高校受験が終わったら俺も素直になるつもりだった。照れくさいとかそんなこと考えるのはもうやめにして、あいつのことを抱きしめてやろうと思ってた。好きだって言おうと思ってた。それなのに、それなのに……っ!」
「もういい。よく分かったから、もうそのへんでやめとけ」
和真が声を詰まらせたところで、ようやく爽太の口が動いてくれた。
小さく肩を震わせる友人の姿をじっと見つめる。こいつは今までどんな想いで幼馴染のことを語ってきたのだろう。こうして本当のことを誰かに語り聞かせたりできるようになるまでに、どんな想いがあったのだろうか。正直言って爽太には想像もつかない。
しばらく沈黙が続いて、やがて「すまん」という和真の小さな声がそれを破った。
「お前達を見てると、どうしても考えちまうんだよ。あいつがここに居たらどんなだったんだろうって。もし生きてたら多分あいつも俺と一緒にこの寮に入ってただろうからさ。お前とか奈央とか愛華ちゃんとかとも友達になってたはずなんだ。もしそうなってたらどんな感じだったんだろうって、この三年間ずっとそればっかり考えてた」
どうやら感情の沈静化に成功したようで、もう和真の声は震えていなかった。爽太は何も言わず、和真が語るに任せる。
「だから、無理なんだよ。たとえ奈央がどんだけ俺のことを想っていてくれていても、奈央と居る限りはどうしたって麻衣子のことが頭から離れねえ」
「でもお前、ずっとそのままじゃあ――」
「分かってる。高校を卒業したら少しずつあいつのことを忘れる――いや、忘れることなんてできねえけど、あいつ以外のことも考える努力をしていこうと思う。だからさ、すまん爽太、許してくれ。せめて高校に居る間だけは、あいつのことだけを考えてやりたいんだ」
謝られても困る、と言おうとして、余計なことだと思い直してやめる。きっとこれは懺悔なのだ。そこに爽太の言葉なんて必要ない。
「分かったよ。それで、そのことは奈央たちには?」
和真はゆっくりと首を横にふった。
「言わないでおこうと思う。俺たち四人の関係がこれからも続いていくんだとしたらいつかは知られる日が来るだろうけど、今はまだ駄目だ。もっと奈央の気持ちが整理できてからのほうがいい」
なんとも言えない。奈央には本当のことを知る権利があると思う一方で、確かに和真の言うことにも一理あるとも思う。
「しかし、どうせならもっと早く教えてくれよなあ。あれこれ言ったりしてみた俺がバカみたいじゃないか」
「そうだな」と言って和真は少し笑う。それからすっと静かに立ち上がった。
「重い話をしたあとに長居してもナンだし、俺は部屋に戻るとしようかね。お前はどうすんだ? このまま部屋に居るか?」
「今からか? そうだな、まだ寝るには早いし屋上にでも出てみようかと思う」
「いつも通りか。寒いのにご苦労なこった」
んじゃな、とごく軽い調子で言い残して和真は部屋を出て行った。それを見送ってから爽太はハンガーにかかっているコートを手に取り、部屋をあとにする。
今日の天気は晴れ、きっと星がきれいに見えることだろう。
※
同じ頃、奈央は愛華の部屋で三年来の友人とテーブルをはさんで向き合っていた。