ベクトル
『バ〜カ』という文面にアッカンベーの絵文字をつけてメールを送りつけてやる。あとは和真たちが帰ってくるのを待つだけだ。
ぼんやりとテレビや雑誌を眺めたりしながら適当に時間を潰して、時刻が午後三時を過ぎたあたりで寮の庭へ出た。門の横にある桜に木に寄りかかって、目当ての人物が帰ってくるのを待つ。
ほどなくして、和真の姿が学校へと続く道の向こうから現れた。隣には愛華の姿もある。
――ちょうどいいかもしれない。私なりのけじめというやつを見てもらおう。
二人が門の内側へ入ってきたところで、立ち塞がるような形で奈央は二人の前へと躍り出た。
「和真。話があるの」
いきなり現れた奈央の姿に、和真は意表をつかれたような顔をしている。隣に立つ愛華はおろおろと和真と奈央の顔を見比べるようにして、やがて小さく口を開いた。
「え、えっと……じゃあ私、先に戻って――」
「待って。あんたもそこで聞いててほしいの」
愛華は目をぱちくりさせたが、言われた通りその場に立ち止まる。
少しだけそちらに目を向けてから、改めて奈央は和真の正面に向き直った。
「和真。私、あんたが好き」
誰かが口を開く前に、有無を言わさず断言する。
「二年くらい前からずっとあんただけを見てきた。あんたが幼馴染の子のことを好きなんだって知っててもずっと諦め切れなかった」
和真は何も言わない。愛華はかたずをのんで二人の様子を見つめている。
「だから、あんたの気持ちを聞かせて。今までみたいに間接的じゃなくて、私に向かってはっきりと」
和真は一度目を伏せて、大きく息を吐き出した。それからまた顔を上げて、奈央の目を正面から見据える。
「すまん。俺が好きなのはやっぱりあいつ――幼馴染の麻衣子だけだ。それ以外の女の子にはどうやったって特別な感情は向けられねえ」
――ああ。
奈央は空を仰いだ。うすいブルーの空を真っ白な雲が気持ち良さそうに泳いでいる。
――これで、いいかな? ねえ私、もうこれでいいよね?
二年続いたこの想い。初恋――ではないけど、これほど一途に誰かのことを好きになったのは初めてだった。
だから、はっきりとした形が欲しかった。なし崩し的に自然消滅させるのではなしに、この恋はここで終わったのだという証が欲しかったのだ。
「そっか。うん、分かってたんだけどね、あんたの返事は」
はるか上へと馳せていた視線を再び戻してきて、和真の顔を見る。
「あのさ、聞いてくれるかな?」
「ん?」と和真が視線で先を促してくる。
「爽太のこと。私、今からあいつのことを見てみようと思うんだ」
なんだろう、この感覚は。「好き」という台詞すら何のつっかえもなく言えたのに、話題が爽太のことに差し掛かった途端に急激に顔が熱くなってくる。
「別に昨日のことで舞い上がってるわけじゃないの。考えてみたんだけど、私――」
「奈央ちゃん」
ふいに、愛華が声を発した。かすかに俯いているその顔を前髪が覆い隠し、表情をうかがい知ることができない。
愛華は静かな足取りで歩いてきて、奈央の正面に立った。そして――
ぱちん。
「……え?」
頬を張られたのだと奈央が気付くまでに、しばらく時間がかかった。じんじんと痛みを伝えてくる自分の頬にそっと手をやり、信じられないような気持ちで愛華の顔を見返す。
「都合のいいこと言わないで!」
愛華は今まで見たこともないような顔をして、聞いたこともないような声を出した。至近距離から鋭い視線を向けられて、奈央は押し黙る。
「いままで爽太くんのことなんて見ようともしなかったくせに! なんなのよ、いきなり!」
愛華の声は止まらない。和真も止めるということをすっかり失念してしまっているようで、呆けたようにこちらを見ている。
「考えてみた? 一体何を? 今まで自分がどんなに酷いことをしてきたか、どんなに爽太くんを傷つけてきたのか! そんなことも分かってないくせに!」
愛華に張られた頬が熱い。現実感のない光景の中で、その感触だけが奈央にこれは夢ではないと伝えてくる。
「なに呆けてるの? 何か言いなさいよ! ねえ、なんとか言ってみたらどうなのよ!」
まるで別人のような愛華の言葉に、おずおずと奈央は口を開く。
「……なによ」
口を動かしたのと同時に、ぽろりと一筋の雫が瞳からこぼれ落ちた。
「私だって寂しいのよ。みんなと別れなきゃいけなのが寂しくてたまらないの」
一度流れ始めたそれは、もう止めることができなかった。せきを切ったように次々と溢れてくる涙が、愛華に張られた頬を伝い落ちていく。
「そんな時に優しくしてくれる人が居たら。好きだって言ってくれる人が居たら。その人に甘えたくなることの、なにがいけないってのよ」
その台詞を最後に、奈央は地面にへたり込んでしまった。
情けないとか、恥ずかしいとか。そんな感情はどこかへ消えてしまった。
奈央はただひたすらに、まるで子供のようにしゃくり上げて泣きじゃくった。
※
部活を終えて帰ってきてみたら、明らかに寮の空気がおかしかった。爽太が帰ってきたのは午後七時を回ってからだからすぐに夕食だったのだが、その最中も奈央たちは一言も話そうとはしなかった。その空気にあてられてか、後輩達も心なしか言葉少なのまま食事を口に運んでいて、多分この寮に入って以来一番静かな夕食だったと爽太は思う。
風呂も済ませて部屋に戻ってきた爽太は、ベッドの上で仰向けになって両手を頭の後ろで組んだ。
奈央たちの様子がおかしかった原因は明らかだと言っていい。昨日のこともあるし、今朝の電話で「今日告白する」みたいなことを奈央は言っていたから、多分それを実行して、その時にもまた何かあったのだろう。
しかし、それにしてはなんだか腑に落ちない部分もある。奈央たち三人の中で一番険しい顔をしていたのは何故か愛華だったのだ。奈央や和真ならともかく、一体何故愛華があんな顔をしていたのだろう?
愛華が心を乱す原因。思い当たることと言えば一つだけだが、それと奈央が告白することと一体どんな関係があるのだろう?
そこまで考えたとき、ふと部屋のドアがノックされた。爽太は身を起こしてそちらを見る。
誰だろう。一番可能性が高いのは和真だ。昨日のことできちんと話をしようと思って来たのかもしれない。
ともかく、爽太はドアのところまで歩いていって、外側へ開けた。
「あれ?」
予想外なことに、そこに立っていたのは愛華だった。いつもの黒いワンピース姿。爽太と目が合うとふんわりと微笑んで、そっと口を開く。
「入れてくれない、かな?」
「あ、うん。それじゃ……」
ドアを大きく開いて愛華を中へと迎え入れる。女の子を部屋に入れるということに思うところがないわけではないが、向こうから「入れてくれ」と言っているのだから断るのもなんだか申し訳ない。特にこの愛華と自分の場合は関係が微妙なところがあるわけだし、と爽太は誰にともなく言い訳する。
「爽太くんの部屋に一人で入るのなんて初めてだよね」
部屋の中ほどに立った愛華は爽太に背中を向けたまま、感慨深そうに言う。
「うん。そうだと思う」
それはそうだ。こんなことがそう何度もあっていいはずがない。