ぼくのせかい
周囲は同じような景色ばかりだから分からなくなってしまった。沙雪が苦笑してある方向を指差す。
「あっちだよ。多分そんなに遠くないだろうから、すぐに追いつけると思う」
「そっか」
本当に沙雪が居てくれてよかった。自分ひとりでは何も出来ていなかったに違いない、と義人は思う。
繋いだ手から伝わってくる温もりと柔らかさ。ケンカなんてろくにしたことがない自分でも、これを守るためならばどこまでも強くなれそうな気がする。
その強さを、今は。ちょっとだけでいいから他のことに使ってみようではないか。
※ 鈴川 達臣
すっかり緊張してしまってなかなかうまく行かない様子だったが、時間をかけてようやく祐樹は早瀬七海を離れた場所に呼び出すことに成功した。今は二人向かい合わせになって何かを話しているところだ。達臣の位置からはちょうど祐樹が背中を向けている形になっているのでどんな表情をしているのかは分からない。
達臣たちは女子生徒たちのところに戻ってみんなでその様子を眺めている。これから何が起こるのか知っている男達はいやらしい笑みをかみ殺しつつ、何も知らない女達は下世話な興味と共に。二人の会話は耳をすませばなんとか聞こえなくもないが、達臣には結果なんて見えているので無理に聞く必要もない。
やがて祐樹はがっくりと肩を落とした。脚本どおり、予想されつくした必然の結果。七海の口が「ごめんね」と動くのが見えた。「あー」と残念そうな声を出したのは女子生徒たち。こいつらにしてみればもし気まぐれで七海が祐樹を受け入れるようなことがあればライバルが一人減る、くらいに思っていたのだろう。
それからいくつか会話があったようだが、やがて七海は達臣たちのほうに戻ろうと歩き始めた。祐樹がその手を強引に掴んだのは、七海がちょうど祐樹の横を通り過ぎようとした時だった。
まず告白することから始めた祐樹。途中でどんな葛藤があったのかは達臣の知るところではない。でもそこからの祐樹は素早かった。掴んだ手を力任せに引き寄せて、七海の両肩を背後の岩山に押し付ける。
とたんに女達が慌てた。
「な、なにやってんのよあいつ!」
「やばい、止めなくちゃ! ほら、ぼけっとしてないであんたたちも行きなさいよ!」
口々にわめき立てる女達。男達は動かない。
「何言ってんだ。これからが面白いんじゃねえか」
ニヤつく口元をもはや隠そうともせずに男の一人が言う。祐樹たちのところへ駆けて行こうとする女達を何人かの男が前に回り込んで遮った。
「無粋なことすんなよ。ユウにとっちゃあ一世一代の大勝負なんだぜ」
女達は信じられないものを見る目つきで男達を見る。
「あんたたち……男だけで集まって何を話してるのかと思ったら、まさかそんなことだったの?」
「そんなことって何だよ。俺たちはただユウの背中を押してやっただけだぜ。なあ達臣?」
一人の男がその名前を呼んだのをきっかけに、女達の目がいっせいに達臣へと向けられる。
「まさか、達臣くんまで?」
「うそでしょ? ねえ、達臣くん」
すがるような声。達臣は無視を決め込む。女達には目もくれず、ただじっと祐樹と七海の様子を伺うことに専念した。
「やめてよ!」
その視線の先から鋭い声が響いた。七海が思い切り祐樹の頬を張る。ばちん、という音がここまで聞こえてきそうなほどの勢いだ。
不意に胸がちくりと痛んだ。達臣の中をよぎるのはいつかの記憶。拒絶された過去。
(――馬鹿馬鹿しい)
そんなもの、今は何の関係もない。おかしな感傷を封じ込めて達臣は観察を続ける。
祐樹はすっかり勢いをなくしてしまって、放心した様子で張られた頬に手をやっている。七海はまだ何かを言っているようだがそれに応えようともしていない。
「あーあ、何やってんだよあいつ」
なんだか嬉しそうな口調で一人の男が言った。「自分も七海に気がある」と言っていた男だ。
「なあ達臣、俺が代わりに行っていいか?」
何故そんなことをいちいち確認するのだろう。理解できない。
「さっきも言っただろ。好きにしろ」
おざなりに言ってやった瞬間、女達が息を呑んだのが分かった。が、達臣はやはり相手にしない。男は嬉しそうに二人のところへ歩いていった。
男は動かなくなった祐樹を押しのけて、いきなり七海の唇を奪った。七海は目を見開いてじたばた暴れているが、男の力で押さえつけられてはどうにもならない。
やがて男は重なっていた唇を離して何事か七海に言葉を投げかける。そして七海の体に男が手を伸ばそうとした、その時。
「やめなさい!」
達臣のよく知る声がその場に響き渡った。
※ 橘 鏡花
間に合った、と言えるのかどうか。好きな男の前で別の男に唇を奪われるというのはどれだけの屈辱なのだろう。想像できないし、したくもない。
闖入者――弓を持った物騒ないでたちの人物の登場に、この場に居る全員が動きを止めて鏡花のほうを向いている。早瀬七海を襲っていた男も同様だ。とりあえずそちらはそれでいいとすることにして、鏡花はじろりと達臣をにらむ。
「タツ、あんた……」
達臣は何故自分が責められるのか分からないというふうに肩をすくめた。
「なんだよ。俺はなにもしてねえぞ」
「しらばっくれるな。私には全部聞こえてたのよ。与えられた力のおかげでね」
達臣はちょっと驚いた顔をしたけど、またすぐにニヤニヤ笑いを取り戻す。
「なるほど。で、何がいけないって?」
「何がって……!」
思わずかっとなりそうな頭をなんとか抑え込む。ここで自分まで感情的になってしまっては収拾がつかなくなる。
「俺はただ『好きにしろ』と言っただけだぞ。『女を犯せ』なんて一言も言ってない」
「うるさい。言ってようとなかろうと同じことよ。あんたが煽らなきゃあんなことにはならなかった」
想いを踏みにじられたのは早瀬七海だけではない。純粋に七海のことを想っていたはずの白石祐樹にしたって同じことだ。安い挑発にまんまと乗せられて欲望に走ったのは軽蔑に値するが、同情の余地は多分にある。こんなことがなければ祐樹だってあんな暴挙には出なかったはずだ。
「あんなこと、ねえ」
達臣は小馬鹿にするような口調で呟いたあと、ふいに大きな声を出した。
「お前ら、こっちに戻って来い」
祐樹たちに向けた台詞だ。七海を襲っていた男はちょと不服そうな顔をしたが、それでも素直に鏡花たちのほうへ歩いてくる。すっかり達臣の言うことには従順になってしまっているらしい。
七海は男の腕に捕らえられたままだ。まだ暴れてはいるがやはり抜け出せない。祐樹はその後をとぼとぼとついてくる。
戻ってきた三人に、達臣はこう言った。
「鏡花は俺が抑えててやるから、ここでさっきの続きをやってくれよ」
「なっ……!」
馬鹿な。今何を言ったのだ、こいつは。
「別にそこの二人だけじゃなくていいぞ。お前らもどれでも好きな女とやったらいい」
途端に男達が色めきたつ。凶暴にぎらつく目が女達に向けられる。ひ、と女達が息を呑む音が聞こえた。
「ちょ、ちょっとあんたたち! なんでそんな簡単にこいつの口車に乗っちゃうのよ!」