ぼくのせかい
「ちょっとおおげさだったかな。実際は『自分が面白いと思うものを選んでたらいつの間にかオタクになってた』って感じだと思うよ」
悠馬も少し口元を緩める。
「それを俺に合わせて理屈っぽく言えばさっきみたいになるってことか」
啓太はふっと笑って「まあ、そういうこと」と言った。
※ 藤井 義人
「行っちゃった……」
去っていく鏡花の背中を見送りながら義人はぼんやりと呟いた。
クラスメイトの女の子たちに危機が迫っているという。しかもそれをやっているのは同じくクラスメイトである男子たちなのだ。これを黙って見過ごすわけにはいかない。
でも。
「どうしよう、沙雪ちゃん」
なんだか彼女に頼っているみたいで情けないけど思わず言ってしまう。だって、行けば自分達も危ない目にあうかもしれないから。義人自身はいいとして沙雪をそんなことに巻き込みたくない。
「さっきも言ったけど……私、義人くんが危ない目にあうのなんて嫌だ」
沙雪はそれしか言わない。気持ちは嬉しいけどさすがにちょっと情けなくもある。
「僕は大丈夫だよ。この盾もあるんだし」
左手の指でコンコンと盾を叩いてみせる。これがどれだけ役に立つかは分からないけど、きっと何も無いよりはずっとましなはずだ。
「そんなこと言って。義人くん、ケンカなんてできないでしょ?」
「う」と言葉につまる。付き合いだしてから一年と少し、さすがに沙雪は義人のことをよく理解している。
「い、いざというときはやるさ。僕だって男だ」
やっぱり男としてはせめて恋人の前ではこれくらいのことを言いたい。どうせ虚勢だとばれているとしてもだ。
「今がその『いざというとき』? 義人くん自身が危ないわけじゃないんだよ?」
こんなことを言っているが、沙雪だってクラスメイトたちのことが心配でないわけではないと思う。ただそれよりも義人が危ない目にあうのを嫌がっているだけだ。
義人にしても同じことだ。放ってはおけないとは思うものの、沙雪を危険なことに巻き込むのは気が進まない。結局のところ、これがネックになっている。
しばし沈黙。頭の中を整理して考えてみる。クラスメイトの危機に見て見ぬフリを決め込むことと、沙雪を危険に巻き込むこと。天秤にかけて計ってみたらどっちに傾くのだろうか。どっちにも傾いて欲しくない、と思った。
「沙雪ちゃんが危ない目にあうのも嫌だし、みんなが酷い目にあうのを黙って見過ごすのも嫌だ」
結局のところこう言うしかない。優柔不断。自覚している。でもこれが嘘偽りのない正直な気持ちなのだからしょうがないじゃないか。
「義人くん……」
「沙雪ちゃんは僕が守る。危ない目になんてあわせない。だから行こうよ。やっぱりみんなを放っておくなんて僕には出来ない」
沙雪は何も言わずに下を向いてしまう。義人はさらに言葉を続けた。
「それにこのままじゃあ橘さんだって危ないかもしれない」
はっとしたように沙雪は顔を上げた。
「鏡花ちゃんが?」
「うん。だって、話からすると鈴川くんのところには何人か男子が居るみたいだし。橘さんが持ってたあの弓にどんな力があるのかは分からないけど、やっぱり女の子一人でどうにかするのは難しいんじゃないかな」
義人がそう言うと沙雪は少し考えるような仕草を見せたものの、やっぱり答えは変わらない。
「でも、やっぱり私、義人くんが――」
「沙雪ちゃん」
沙雪がまた同じことを言おうとしたのを、義人はその名前を短く呼んでさえぎった。
「僕はね、沙雪ちゃんと出会って、恋人同士になって……いろいろ考えたんだ」
思い出す。
一年生のとき沙雪と同じクラスになって初めてその姿を見たとき、かつてない感覚が義人の中をかけめぐった。自分はあの子に恋をする。嘘みたいな話だけど、そんな予感がその時からあったのだ。一目惚れというやつだったのかもしれない。
元々それほど快活なほうでもなく、女の子と話すのも苦手だった義人。それでも勇気をふりしぼって話しかけた。自己紹介に始まって勉強のこと、趣味のこと、その他のつまらないこと。ことあるごとに何度も何度も。沙雪はその度に優しく微笑んで応えてくれて。ようやくぎこちなさがとれて自然に会話ができるようになった頃、気付けばもう義人はすっかり沙雪に夢中になっていた。
告白したのも義人のほうからだ。どうやったらいいのかさっぱり分からなくて、いろいろな人に相談したりして。それでもうまい考えが浮かばずに結局放課後に学校の近くにある公園に呼び出す、なんていうベタなことをやってしまった。
でも本当に難儀したのは呼び出したあとのことだ。自分の気持ちを口に出して伝えるということがあんなに勇気の居る行為だとは思わなかった。断られたらどうしよう。もしかしたら迷惑なんじゃないだろうか。そんな恐れが心を支配してしまって、成功したあとのことなんてちっとも考えられなかった。
寿命が二十年は縮まりそうなほど張り詰めた気持ちで、今にも爆発しそうなほどドクドクいう心臓をおさえて。もう半分以上死んだような心地でなんとか言い切ったあと。真っ赤な顔をした沙雪の口から聞かされたのは単なる承諾の言葉ですらなくて「私も藤井くんのことが好き」という台詞だった。その時の気持ちと言ったら。天にも昇るような、なんて言葉では足りない。夕暮れの公園、自分を包む全てが輝いていて、そこはまぎれもない天国だった。
あれから一年と少し。恋人同士になってからも沙雪への気持ちはちっとも治まることはなくて、逆に膨らんでいくばかりだ。あなたが居れば他に何もいらない、というようはフレーズがラブソングではよく出てくるけど、それがどういうことなのか今ならよく分かる。
「僕はきっと世界で一番幸せな男だと思う。でもね」
ラブソングに歌われるということは、それを理解できるのは義人だけではないということ。義人と沙雪の二人だって他所から見ればどこにでも居る高校生カップルの一組に過ぎないわけで。特別だと思っている彼女との時間だってもしかしたらありふれたものなのかもしれない。
「みんなにだってこういう幸せがあるかもしれない。本気で好きな人が出来て、その想いが叶ったなら誰だって僕と沙雪ちゃんが味わっているような気持ちを感じられるかもしれないんだ。それが奪われるようなことがあっちゃいけない」
誰もがこんな気持ちになれるのだとしたら素晴らしいことだと思う。それを守ることは、もしかしたら沙雪を守ることと同じくらいの価値があるのではないか。
「行かなくちゃ。僕に何が出来るか分からないけど、黙って見過ごすことはできない」
沙雪は不安げにこちらを見つめてくる。言いたいことはどれだけ伝わっただろうか。彼女の答えを聞くまでは分からない。
「……そうだね。分かったよ」
やがて沙雪は小さく、でもはっきりと言った。
「みんなを放っておいて自分達だけ幸せになるなんて、なんか違うよね。ごめん、私どうかしてた」
よかった。心からそう思う。沙雪が理解してくれたことよりも、この気持ちが義人のものだけでなかったことが嬉しい。
沙雪が義人の手を取る。
「行こっか」
「うん。えっと……あれ、橘さんが行ったのってどっちだっけ?」