ぼくのせかい
弓と矢筒を担いで鏡花は走った。鏡花の居る位置から達臣までは恐らく二、三キロほど。ちょっとした長距離走だ。ダイエットにちょうどいい。
どうやって達臣を止めるのか、果たしてあいつがこちらの言うことを聞くかどうか。それは考えないことにした。いざとなればこの弓に頼ればいい。直接当てなくても威嚇ぐらいにはなる。必ず狙い通りに飛ぶということは、狙わなければ必ず外れるということなのだから。
そうして道中を急いでいた、その時だ。
「鏡花ちゃーん!」
ふいに聞きなれた声で呼び止められた。慌てて足を止めて声が聞こえたほうを見ると、やはり予想通りの人物がそこに居た。
「沙雪? こんなところでなにして――」
荒れた息を整えつつ言おうとして、ふと思い出す。そういえば。
「鏡花ちゃんを探してたの。よかった、見つかって」
そうだった。そういえば沙雪と藤井義人がそのようなことを言っていたのだった。あの二人と一緒だと居心地が悪そうだ、でもどうしてもと言うのならばこちらから迎えに行ってやらんでもない――なんてことを考えていたところへあの達臣たちの会話が聞こえてきたのですっかり忘れてしまっていた。
「なんだか急いでたみたいだけど、何かあったの?」
「あー、うん。それがね……」
なんと説明しようか、と考えていたところで。
「さ、沙雪ちゃーん! ちょっと待ってよ!」
ずいぶんと慌てた様子で藤井義人が走ってきた。で、鏡花の姿を認めて目を丸くする。
「た、橘さん。見つかったんだ」
ぜいぜい言いながら途切れ途切れに声を出す義人。どう見てもただの情けない男にしか見えないから、手に持っている盾が必要以上の違和感を放っている。
「うん。ごめんね義人くん、いきなり走り出しちゃって。鏡花ちゃんの姿が見えたものだから」
「いや、いいよ。それより、よかった、橘さんと合流できて。ついてるね」
肩で息をする義人に気づかうような視線を送ったあと、沙雪はまた鏡花のほうを向いた。
「実はね、私たち鏡花ちゃんを探してたの。元の世界へ帰る方法を一緒に探せないかなって――」
「知ってる。でもごめん、今はゆっくり話してる余裕が無い」
遠くに聞こえる達臣たちの会話。まだ決定的なことは起こっていないようだが、状況はさっきと変わっていない。このままでは時間の問題だろう。
「そうだ。鏡花ちゃん、あんなに急いでどこに行こうとしてたの? 何かあった?」
こちらを心配するような顔で言ってくる沙雪に、何と言うべきか鏡花は迷う。この子を巻き込むべきではないとは思うけど――
ちらり、と義人の持っている盾に目を向ける。きっとあれにも何か特殊な力があるに違いない。鏡花の中では情けない印象しかない義人だが、少なくともマイナスにはならないはず。荒事になった時のことを考えれば戦力は多いほうがいい。
少し考えて、鏡花は事情を話すことにした。「力」のおかげで遠くの物音まで聞こえるようになっていること、そのおかげで達臣たちの会話が聞こえたこと。
「そういうわけで、私はあいつを止めにいかなきゃいけないの。あんたたちはどうする?」
義人と沙雪は顔を見合わせる。
「どうするって言われても……」
「やめようよ。さっきも言ったけど、私、義人くんが危ない目にあうのは嫌だもの」
聞きようによっては冷たいと言えなくもない台詞を口にする沙雪。別に鏡花は驚かない。普段は思いやりのある文句なしの「いい子」なのだが、義人のことになると急に利己的というか利義人的というか、そういうふうになるのを鏡花はよく知っている。鏡花と沙雪、女同士で遊びの約束をしていたのを義人のためにドタキャンされたのだって一度や二度ではない。
「あんたたちはあんたたちで考えて。それじゃ、私は急ぐから」
それだけ言って鏡花はくるりと踵を返した。なんだか冷たい言い方になってしまったかもしれないけど、構っている余裕が鏡花にはなかった。急がないといけないのと、もう一つ。何故だかあの二人を見ているのが辛かった。
(……違う)
心の奥底から湧き上がってくるその感情を鏡花は否定する。
(違う。うらやましくなんて、ない)
※ 蒼士 悠馬
「ねえ蒼士くん、その本ってまだ読み終わらないの?」
啓太が言った。「ん?」と悠馬は目だけ動かして啓太を見る。
「俺が本ばっかり読んでるからヒマなのか?」
「いや、そういうんじゃなくて……蒼士くん、今日ずっとその本読んでるからさ。朝から授業中もずっと。そんなに分厚い本じゃないのにまだ終わらないのかなって」
悠馬はまた文庫本に目を戻して、ぽつりと「もう終わったぞ」と言った。
「え?」
「そもそもこれを読むのは今日が初めてじゃない。たしかもう三回目だ」
啓太は目をしばたかせる。
「そんなに好きなの、その本?」
「別に。いつもやってることだ」
「いつもやってるって……じゃあ蒼士くん、本を読むときはいつも同じのを何度も繰り返して読んでるの?」
「ああ。一度読んだだけじゃあ全部理解した気がしないからな」
啓太は少しの間考えてから、
「全部理解するって、本に書いてあることを一字一句全部記憶するまで読むってこと?」
悠馬はちょっと笑って「そんなわけないだろ」と言う。
「そんなことをしても意味がない。この本は何が書いてあるのか、作者の伝えたいことは何なのか。それを理解するまでって意味だ。だから逆に言えば一度読んですぐにそれが分かるなら読むのは一度でいい」
啓太はまだよく分からないような顔をして首をひねっている。悠馬は読書に戻ろうとして、ふと何かを思い出したように顔を上げて啓太を見た。
「俺にはお前みたいなやつのほうがよっぽど謎だけどな」
「え、どういう意味?」
「なんでお前らは二次元にこだわるんだ? 物語が好きならみんなやってるようにドラマや映画を見ればいいし、小説を読んでもいい。かわいい女の子ならば女優とかにもいっぱい居る。二次元にこだわる理由がわからない」
啓太は「うーむ」と腕組みをしてしばらく考え込んでから言った。
「僕が思うに、出てくるキャラクターが生きてるかどうか、じゃないかな」
「生きてるかどうか?」
「うん。ドラマとかだと……例えばキムタクが出てる作品だったらあくまで『キムタクのドラマ』になるよね? 主人公はキムタクとして印象に残る。役の名前を覚えてる人なんてあんまし居ない」
「ふむ」と悠馬はあごに手を当てて少し考えてから「そうかもな」と頷いた。
「でしょ? でも二次元は違うんだ。『ルフィ』っていう主人公なら『ルフィ』として作品の中で生きてる。アニメだったら声優は居るけど、それだってそのキャラクターを構成する一部でしかない。有名な声優が出ててもその作品を『声優の○○の作品だ』なんて言い方はしないよね」
自分の言ったことを反すうするように啓太はそこで一度間を空けて「うん」と頷き、それからこう言った。
「だから僕たちはそういうのを好きになるんだ。誰かが演じてる役じゃなくて、作品の中で生きているキャラクターとして」
「へえ」と悠馬は感心したような声を出した。
「オタクってのは誰でもそんな小難しいことを考えてるモンなのか?」
啓太は照れたように鼻の頭をかいた。