ぼくのせかい
悠馬の返事はあくまでそっけない。文庫本から顔を上げる素振りすら見せない。
対する啓太は浮かない顔だ。
「いきなりこんなことになって……何がなんだかさっぱり分からないよ。他のみんなはどこへ行ったんだろう。そうだ、食べるものとかはどうすれば? 蒼士くん、何も持ってないよね?」
「ない」
悠馬は短く言ってから、ふと思いついたように言葉を続ける。
「それもあの『声』にしてみれば想定の内なのかもな。変に煽ったりしなくてもほっとけばそのうちみんな餓えてくる。餓死するくらいならその前に、って何かしら行動に出るやつも現れるだろう」
「そんな……」
啓太は絶望にくれた顔をする。悠馬は冷めた表情のまま口元だけをほんの少し緩めた。
「心配するな。俺だって死にたくはない。誰かが襲い掛かってきたらその時はちゃんと応戦するさ。三本のナイフの効力ならさっき試しただろ?」
「あ……うん。びっくりしたよ。まさか三本にそれぞれ違った力があるなんて」
啓太は悠馬の腰に目を向けた。悠馬のベルトからは茶色い革のホルダーがぶら下がっていて、そこに三本のナイフが収められている。
「それに蒼士くん、ものすごく鼻がよくなってるんだよね」
「ああ。誰かが近付いてきたらすぐにわかる。犬みたいでなんかあんましカッコよくないけどな」
悠馬は顔を動かさず、目だけで啓太のほうをちらりと見た。
「だからお前もちょっとは落ち着け。何か……そうだな、お前の好きな漫画本とかアニメの雑誌とかあったらよかったんだが」
思わず、という感じで啓太は苦笑した。
「僕だってずっとそんなのばかり見てるわけじゃないよ」
啓太はいわゆる「オタク」と呼ばれる類の人間だ。別に分厚いメガネをかけていたりリュックを背負ったりしているわけではないが、線が細くて色白、どう見ても文化系であるその外見は存分にそういう雰囲気をかもし出している。
対する悠馬はと言うと啓太より背が高く、特別にがっしりしているわけではないが幾分か筋肉もついている。整えているのかいないのかよく分からない無造作なミディアムヘア、あまり表情の変化を見せないその顔立ちは鈴川達臣ほど目立つわけではないにせよ、それなりに整っている。
外見から性格、趣味に至るまで何一つとして共通点など見当たらない二人だが、何故だか日頃から一緒に居ることが多い。この世界に放り込まれる直前も昼休みのひと時を共にしていたのだ。と言っても何をしていたわけでもなく、悠馬は今と同じように文庫本を読んでいてたまに話しかけてくる啓太にぽつりぽつりと返事をしていただけなのだけど。
「そうか」と悠馬は興味無さげに呟いて、それきり何も言わずに再び文庫本に集中し始めた。啓太は気持ち先ほどまでよりは落ち着いた様子でなんともなしに悠馬のほうを見ている。
しばし、二人して無言。ぱらり、ぱらりと悠馬が文庫本のページをめくる音だけがいやに大きく響いた。
※ 藤井 義人
義人は大きくため息をついた。
両手を地面について空を仰ぎ見る。そこは相変わらず真っ黒で余計に気が滅入った。
やはりというか何と言うか、沙雪と二人であれこれ話し合ってみたところで事態は何も進展しなかった。一体この状況は何なのか。なぜ自分達は巻き込まれたのか。話し合おうにも分からないことが多すぎる。
なにしろ二人の出した案で一番まっとうだと思えるのが「これは夢だ」というものなのだ。でもそれにしては自分がいつ寝たのかも不明だし、ほっぺをつねったりしなくてもなんとなくの感覚で義人も分かっている。「これは夢なんかじゃない」と。
視界いっぱいに広がる真っ黒な空。これだと目を瞑っているのと何も変わらないと気付いて、義人は視線をまた正面に戻した。そこにあるのはもちろん沙雪の姿。リラックスした姿勢で地面に腰掛けている。正座から少し足を崩したいわゆる女の子座りというやつで、そのお尻の下には義人の上着が敷いてある。はじめ沙雪は「いいよそんなの」と遠慮したのだが、義人が「どうしても」と言って聞かなかったので今の形に収まった。
「問題は……これからどうするか、だよね」
沙雪がぽつりと口にする。
そうなのだ。何も分からないままで話し合えることと言えばそれくらいしかない。でもそれにしたって、
「どうするって言っても……」
何しろ経験はおろか話にも聞いたことがない事態だ。何を指針にして動けばいいのかさっぱり分からない。
「食べるものとかも自分たちでなんとかしないといけないのかな。でもここ、なんにも無さそうだし……」
言われてはじめて義人は気付く。
そうだ。この状況がいつまで続くのかは分からないが、すぐには終わらないというのならば食べ物がないとどうしようもないではないか。そんなことにすら考えが行っていなかった自分を恥ずかしく思うと共に、きちんと考えてくれているこのパートナーを頼もしく思う。
「他のみんなはどうしてるんだろう。食べ物がなくて困るのはみんな同じのはずだよね」
「うん」と頷いた沙雪は下を向いて考え込むような仕草をしている。義人はふと思いついたことがあったので言ってみた。
「沙雪ちゃん、他の人と合流するっていうのはアリだと思う?」
そんなことは考えもしていなかったのか、沙雪は意表をつかれたような顔をして目を瞬かせる。
「二人だけよりもそっちのほうがきっといいと思うんだ。食べ物を探すにしても人手が多いほうがいいだろ?」
「でも、あの『声』の言ったことを真に受けてこっちを敵視してくる人も居るかもしれない」
「え」と思わず声を上げる。沙雪の言ったその台詞が義人には意外だった。いつも穏やかで優しい彼女がこんな、他人を疑うようなことを言うなんて。
「こんな時だもん。誰がどんなことを考えるか分からないよ」
沙雪は義人の目をじっと見つめて言う。
「もし誰かが危ないことを考えてて、義人くんが危ない目にあったりしたら、私……」
そこまで言って沙雪はまた下を向いてしまった。義人は腰を浮かせて沙雪の隣に移動する。
「ごめんね。こんなこと言っちゃダメだって分かってるんだけど……やっぱり私、義人くんが一番大事なの。義人くんが危ない目にあうかもしれないと思うと我慢できない」
小さく震える沙雪の肩を、義人はそっと抱いて引き寄せた。
「うん。僕もそうだよ。沙雪ちゃんのことが何より大事だ」
沙雪が顔を上げる。その潤んだ瞳に映るのは藤井義人という何の変哲も無い男の顔だ。
「大好き、義人くん」
甘えるような口調。どうしてなのだろう、と義人は思う。この子にこんな想いを寄せてもらえる価値が自分にあるとは思えない。ひょっとすると自分は一生分の幸福をもう使い果たしてしまったのではないだろうか。それでも別に構わないけれど――
「大好きだ、沙雪ちゃん」
確かめ合うように言い合って、そっと口づけをする。唇を重ねあうだけの軽いキス。それだけで何か言葉にできない素晴らしいものが義人の中に染み渡っていく。