ぼくのせかい
まず目に入ったのは誰かの背中だった。突き刺さった肉片が角みたいにあちこちから突き出している。
それが誰の背中なのか、気付くのにそう時間はかからなかった。
「なにやってるのよ、あんた――」
だって、ここへ来てからいつもこいつは背中を向けてばかりいた。好き勝手に言いたいことだけ言って、好き勝手にどこかへ行ってしまう。ちゃんと面と面をつき合わせて話したのなんてあの一回だけだ。
「俺はこの程度で死にはしない。俺はこの程度で死にはしない。俺はこの程度で――」
ぐらり。その背中が揺れて、力なく地面に膝をついた。「ははっ」と自嘲めいた笑いが鏡花の耳に届く。
「ダメ、か」
そのままばたりとうつぶせに倒れる。半ば放心してしまっていた鏡花ははっと気がついてそれにしがみついた。
「うそでしょ。こんなのあんたらしくないじゃない。ねえ、ちょっと――」
鏡花が言い終わらないうちに光が立ち昇り始める。きらきら、きらきら。悠馬の体が消えていく。
「……やだ。待ってよ。ねえ、待って! お願いだから!」
腕をぶんぶんふって鏡花は必死に光をかき集めようとする。でも光はあくまでただの光。腕はことごとくすり抜けてしまって何も掴めはしない。
「あお、し――」
一度だけその名前を呼んだ。その時にはもうほとんど悠馬の体は消えていた。その三文字にはもう温かさなんて一欠けらも残っていなくて、とてつもない虚しさだけが鏡花の胸に降りてくる。
思えばここへ来てからその名前を呼ぶのはこれが初めてかもしれない。何故もっと呼ばなかったのだろう。何故もっと素直になれなかったのだろう。いつだって橘鏡花のやることはとんちんかんだ。
やがて悠馬は完全に消えてしまった。鏡花はぺたんと地面に膝をつく。悠馬が消えたあたりの地面に目を落とすと、ナイフが一本だけ残っていた。あとにはもう何もない。
どうして涙が出ないのだろう。不思議で仕方がなかった。こんなにも大きな感情の揺らぎは生まれて初めてだから、体のほうも戸惑っているのかもしれない。
「つまんねえ。順番が狂っちまった」
達臣の声が聞こえた。もうほとんど体はもとに戻っている。悠馬のやった事は無意味だったのだろうか。
「もういい」
鏡花の口は勝手に動いて言葉を発した。
「ここまでして生き残りたいんだったらもう好きにしたら? どうせあんたの言うとおり、私には何もできない」
達臣の高笑いする声が聞こえた。
「なんだよそりゃ。ついに俺の女になる決心がついたのかよ?」
「ふざけるな」
ありったけの拒絶をこめて達臣を睨みつける。今度は明確な意思と共に。
「あんたの言いなりになるくらいなら死んだほうがましよ」
どこかの映画からでも取ってきたようなあちがちな台詞。本当にこういう気持ちってあるんだな、と感心している別の自分がどこかに居た。
ぎり、と歯軋りする音が聞こえる。いい気味だ。本当だったら悠馬の代わりにこいつをぶちのめしてやりたいところだけど、そんなことをしたら返り討ちにあうのが目に見えている。だからせめてもの腹いせにこれくらいは言ってやらないと。
まだ達臣は何かを言っていたが鏡花はもう聞かないことにした。達臣が腕を振り上げるのが見えても、鏡花は下を向いたまま動かない。
悠馬を死なせてしまったのも自分のせいなのだろうか。鏡花は思う。だって、達臣が変わってしまうきっかけを作ったのはたぶん自分だから。
中学二年生の夏休み。「一緒に聞きたい音楽がある」とか言って家に来た達臣を、疑いもせずに鏡花は部屋に上げてしまった。
そのあとどんなやりとりがあったのか、細かいところまでは正直覚えていない。はっきりと記憶に残っているのはいきなりベッドに押し倒されたこと。それを思い切り拒絶して叩き出してやったこと。この二つだ。
達臣が変わったのはあれからだ。今の地位を築き上げるまでにはそれなりの努力があったには違いないが、その代わりに人を見下すようになった。鏡花に拒絶されたことがどうやってそれに繋がるのかはよく分からないが、達臣がそうなったきっかけはどう考えてもあの夏の出来事だ。
だったらあの時あのまま達臣に抱かれていればよかったのだろうか? もちろんそんなのは絶対に嫌だ。想像しただけで鳥肌が立つ。もし今と同じ人生があと百回用意されているとしたら百回とも絶対に自分は同じことをするという自信が鏡花にはある。
だから、もうこれでいい。心残りはたくさんあるけど、なんだかもう疲れてしまった。悠馬が消えてしまって、それと一緒に鏡花の気力もどこかへ行ってしまったみたいだ。
今度は最後まで目を開けていようと決めて。顔を上げてギロチンのような腕が振り下ろされる光景を見ていたら。
その腕がいきなり消えた。
「――あ?」
達臣はぽかんと口を開けて消えた自分の腕を見た。そして次の瞬間、今度は腰のあたりから達臣の体が上下に分断された。腰から上はどさりと地面に落ちて、足はぱたりと倒れる。
苦悶の表情すら浮かべず、達臣はため息をついた。
「なんだよ。一体なんだってんだ? まあこんなのはすぐに元通りに――」
「ならないよ」
達臣の台詞に声をかぶせたのは残りの一人。
「僕がそう認識しているからね」
佐藤啓太だった。
※ 鈴川 達臣
正直、存在そのものを忘れていた。
佐藤啓太。こいつもこの世界へ来ていたのだ。
「本当を言うと、みんなの争いに僕は関わらないつもりだったんだけどね」
啓太が言う。体の再生は始まらない。
「だけどもう鈴川くんをここへ呼んだ意味がもうなくなっちゃったから。ごめんね、そろそろ消えてもらうよ」
啓太が何を言っているのか分からない。まだ体の再生は始まらない。
「正直、鈴川くんがここまで歪んでるなんて思ってなかった。ある意味では鈴川くんが一番僕の想像を超えてたね」
どんどんと血が流れ出ていく。いっこうに体の再生は始まらない。
「鈴川くんは悪役だったんだ。最後はヒーローと戦って倒される予定だった。鈴川くんにその鎧をあげたのは失敗だったね。まさか脳みそがばらばらになってまで生を認識できるなんて思わなかった」
意識が薄れていく。いつまで経っても体の再生は始まらない。
「きっともう二度と会わないと思うからお別れを言っておくね。さよなら、鈴川くん。それだけ自分に自信がもてる鈴川くんが正直ちょっと羨ましかったよ」
全てが闇に包まれる。体の再生は、最後まで始まらなかった。
※ 橘 鏡花
鏡花は悠馬が言っていたことを思い出していた。
――多分この世界は神とか悪魔とかそういうやつが作ったものじゃない。多分ここへ来た人間のうちの誰かが作ったんだろう。
――まあ大体の目星はつけてるよ。一番何もしてないしされてない奴だ。
目の前に立つ啓太を見て思う。その予想は見事に的中した。
光が立ち昇っていく。達臣が消えていく。啓太自身をカウントしないのだとすれば、これで鏡花が最後の生き残りになってしまった。
「一体どうやって?」
その疑問が自然と口からこぼれていた。どうやらもう異常な出来事に慣れてしまったみたいで、頭の整理をするのにあまり時間はかからなかった。