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ぼくのせかい

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 鏡花は悠馬に詰め寄る。悠馬は何も言わない。
「あんたさあ。普段はテストの成績でも真ん中のあたりをうろうろしてるくせに、一度だけ学年でトップになったことがあるでしょ? 全部の教科で満点に近い点を取って」
「ん?」と悠馬は少し目を伏せて、やがて思い至ったように「ああ」と声を出した。
「あの時か。それがどうかしたか?」
「どうかしたか、じゃないわよ。あんなことができるならどうして普段はやろうとしないのよ。自分だけいつもいつもひょうひょうとして、実は周りを見下してんじゃないの? みんなが必死になってるのを心の中であざ笑ってるんじゃないの?」
 身を乗り出した鏡花の後ろで啓太はおろおろとしている。悠馬は詰め寄ってくる鏡花を正面から見返しながら言った。
「そんなことはない。俺だってあの時は真面目に勉強して――」
「そんなのみんなやってるのよ!」
 だん、と鏡花は右手で思い切り地面を叩いた。しばらく間があって、
「っ〜〜〜〜!」
 かなり痛かったらしい。顔を真っ赤にして鏡花は手をひらひらさせ始めた。
「あんなふうに地面を叩いたら手が痛いとお前は認識していた。だから痛かった」
「それはもういいっての……」
 ちょっと涙目になりながら鏡花は悠馬をにらむ。さっきまでの勢いはもうすっかりなりを潜めてしまった。
「いや、意外と冷静だったんだな、と」
 言って、無造作に悠馬は鏡花の手を取った。
「え、ちょっと……」
 鏡花が戸惑ったような声を出す。
「赤くなってる。大丈夫か?」
「だ、大丈夫だって。いいから離しなさいよ」
 ぐい、と鏡花は手を引いたのだが、何故か悠馬はまたそれを引き戻した。
「ちょ、何すんの――」
「頑張って、いつ報われる?」
 ふいに悠馬が沈んだ声を出した。
「え?」
「頑張って勉強して、大学に合格したら今度は単位のために勉強して、就職したら会社にこき使われて、大した贅沢もできない生活がずっと続く。なあ、俺たちの頑張りはいつ報われるんだ?」
 まるで鏡花の手のひらに話しかけるように。悠馬は顔を上げず、沈んだ声のままそう言った。
「あんた、そんなことを……」とつられたように鏡花も沈んだ声を出しかけて、ふと思いとどまったようにがばっと勢いよく腕を引いた。今度こそ悠馬の手から鏡花の腕が解放される。
「馬鹿じゃないの。今頑張らないとあんたの言う『大した贅沢も出来ない生活』すら出来なくなるのよ? 分かってる?」
 ふん、と鼻を鳴らして鏡花はくるりと後ろを向く。それからふっと声を落として、内緒ばなしをするような口調で。
「きっとね。そういうことじゃないのよ、報われるってのは。例えば本気で好きだと思える人に出会えたりとか、その人と結婚して子供ができたりとか……ううん、そういう特別な瞬間だけじゃない。一生懸命生きてれば何気ないひと時でも『ああ、幸せだなあ』って思える瞬間ってきっとあると思うの」
 そう信じたいじゃない、と付け加えて、照れたように鏡花は耳の後ろをかいた。悠馬はふっと口元をゆるめる。
「一生懸命生きてれば、か。意外とロマンチストなんだな、橘って」
「う」と小さく呻くような声が聞こえた。今度こそ本格的に恥ずかしくなったようで、耳たぶまで真っ赤になってる。
「幸せな瞬間、か。悪くない。うん、悪くないな」
 呟くように言いつつ、悠馬はすっと立ち上がった。まだ後ろを向いている鏡花と、あっけに取られたような顔をしている啓太を見る。
「お前らはここに居ろ。俺は鈴川と決着をつけてくる」
 いきなりだった。慌てて鏡花は振り向いたが、今度は逆に悠馬が背中を向けた。
「お前らは付き合わなくていい。俺が個人的にあいつを許せないってだけだ」
 鏡花も啓太も何と言っていいか分からないようだ。悠馬は一人で言葉を続ける。
「最後の一人になったら勝ちってんなら都合がいい。もし俺とあいつが刺し違えるようなことになったらあとはお前ら二人だけ。つまり俺たちの勝ちだ」
 じゃあな、と言って悠馬は一人で歩き出す。「待って」と鏡花が言ったときにはもう、その背中はずいぶんと遠くなってしまっていた。



※ 鈴川 達臣

 気に入らない。何もかもが気に入らない。
 あいつさえ居なければ。あそこであいつさえ現れなければ今頃は全てがうまくいっていたはずなのに。
 殺してやる。今すぐにでも。
 もう傷は癒えた。あとはあいつを探し出して殺すだけ。
 あいつ――蒼士悠馬。ここへ来る前からずっと気に入らなかった。底の浅い他の人間と違ってあいつの考えていることだけはどうしても分からない。
 今はどうしているのだろうか。まさか鏡花と一緒に居る? ますますもって許せない。
 どうやって殺してやろうか。達臣がそんな愉快な想像をしていた時だった。
「よう」
 獲物が自分からやってきた。
 達臣は声のしたほうを見る。――居た。
「殺す」
 見るや否や、達臣は飛んだ。十メートル以上あった悠馬のところまで、たったの一足で。
 自身の異常性に、ある意味で達臣は気付いていない。それを当たり前だと認識しているから。
 一瞬にして距離をつめて、一撃で粉々にしてやろうと腕を振り上げたとき。背中側の空気が鋭く動くのを達臣は背中で感じた。
 とっさに高く飛び上がる。さっき達臣が居た場所を何かが薙いでいくのが空気の動きで分かった。またか、と達臣は思う。一体どういうからくりなのだ?
 それが通り過ぎてしまったのを確認してから達臣は着地しようとして――何故か地面に足がつかなかった。バランスを崩して達臣は跪くような格好で倒れてしまう。
「なんだ? どうなって――」
 何が起こったのか確認しようと後ろを向いて、思わず言葉を失った。
 着地なんてできるはずがなかった。足が無い。二本とも膝から下の部分がなくなっている。見れば、少し離れた位置に二つ、切り落とされた達臣の足が無造作にころがっていた。
「思った通りだ」
 悠馬の声が聞こえた。
「橘は聴覚。俺は嗅覚。お前もそれ以外の五感のうちどれかが強化されてるんだろうと思ってたが、どうやら触覚みたいだな」
 認めるのはシャクだが正解だった。この世界へ来てから達臣の触覚は細かい空気の動きすら感じ取れるほど鋭敏になっている。死角から何かが迫ってきてもすぐに気がつくほどに。
 しかし、痛覚はそれとはまるで別のようだ。足を失ったというのにちっとも痛くない。見るまで気がつかなかったのはそのせいだ。
 何故だろう、と少し考えてすぐに気がつく。痛覚というのは体の発する危険信号だ。自身が傷ついていることを脳に知らせるために体が使うシグナル。逆に言えば「危険がないときには必要ない」ということ。つまり今の達臣にとって足を切り落とされたくらいでは危険にすらならないということだ。
 そのことに気付いた瞬間、再生が始まった。まずは骨、そこから順番に肉、皮膚。最後にはおまけとばかりにやぶけたズボンまで元通りになった。完全に元通りになるまで二秒とかからない。地面に転がっていた「古いほう」の足は他の死体と同じように光になって消えた。
 達臣が立ち上がったとき、「ふん」と悠馬が鼻で笑った。
「いよいよ化け物だな」
作品名:ぼくのせかい 作家名:terry26