ぼくのせかい
達臣はまっすぐこちらへ歩いてくる。どうしよう。どうすればいい。どうやったら止められる?
「――おっと」
その時だ。いきなり達臣は上体を横に反らせた。からん、と何かが地面に落ちる音が義人の耳に届く。
「焦るなよ。今はまだお前の番じゃねえっつってんだろ」
そう言って達臣が振り向いた先では鏡花が矢を放った姿勢のまま固まっている。信じられない、という表情で。
「なんで避けられるのよ、あんた……」
達臣はそれに答えず、地面に転がった矢のところへ歩いていってそれを拾い上げた。
「なんで、はお前のほうだ。さっきといい今といい、なんでそんなにうまく狙ったところを撃てるんだ? お前、ここに来るまで弓なんて触ったこともなかっただろ?」
達臣が何を言いたいのか、義人にはさっぱり分からない。でもなんだか嫌な予感がする。
「狙ったものを必ず射抜く弓矢、か?」
達臣の口元が凶悪に歪む。
「試してみるか」
まるで新しい遊びを試してみるような軽い口調で言って、達臣はこちらを向いた。その視線から義人をかばうように立っているのは二条沙雪。命よりも大事な、義人のかわいい恋人。
所有物。さっき達臣はそう言った。
思い出すのは「私は義人くんのものだよ」と幸せそうに言った沙雪の台詞。その時義人はなんと答えた?
覚えている。「僕だって沙雪ちゃんのものだ」と言ったのだ。
では達臣の言い分は正しいのだろうか? 相手は自分の所有物だから何をしてもいいのだろうか? やっぱりそうは思わない。
つまらないことで沙雪を疑ってしまった。そのことで罪悪感がある。それがまず自分は達臣のように考えてはいないと言える根拠だ。
何故今沙雪は義人の前に立っているのか。義人を達臣から守ろうとしているのか。考えなくても分かっている。そこには打算とかのつまらないものなんて何もなくて、ただ純粋にそうするべきだと思っているからだ。
何を馬鹿なことを考えていたのだろう。沙雪が義人のことを好きでいてくれる。それだけで十分じゃないか。
お互いがお互いの所有物。たしかにそのとおりかもしれない。でもそれは単なる所有物なんてものではなくて。自分の命よりも大事な、かけがえのない宝物だ。
そう。義人は沙雪を傷つけない。傷つけさせない。
何かを叫んだ。きっと沙雪の名前だった。義人は沙雪の前に躍り出る。
沙雪も何かを叫んだ。きっと義人の名前だった。やめて、とも聞こえた気がする。でもやめない。やめるわけにはいかない。
罪滅ぼし、なんてつまらないことを考えてはいない。だって、当たり前のことだ。命よりも大事なものを守ろうとしているのだから、自分を犠牲にすることになんのためらいがあるというのだ。
矢が放たれる。両手を広げて沙雪の前に立った義人に向かって。
せめて目は瞑らないでおこうと思った。それで何が変わるわけじゃないけど、自分がどうなるのかくらいはきちんと見届けたい。
矢は真っ直ぐに飛んでくる。自分は死ぬのだろうか。構わない。沙雪がそうなるよりはずっとましだ。
光になって消えていく自分を想像してみる。きっと沙雪は悲しんでくれるだろう。悔しいのはその気持ちにもう応えられないことと、死んでしまったらもう沙雪を守れないということ。沙雪は無事でいてくれるだろうか。それだけが気がかりだ。
矢が飛んでくる。義人に死をもたらすであろうそれは義人の眼前まで迫り、そして――
消えた。
「え?」
義人の体を貫通したのではない。文字通り義人の目と鼻の先まで来たところで煙のようにふっと消えてしまった。
「一体どうなって……?」
わけが分からない。一体どうなっているのだろう、と考えていた時だ。
がしゃん。何かが砕けるような音がした。
音は義人の背後から。
何故だろう。絶望の予感がした。
振り向く。
「あ――」
盾が砕けていた。沙雪の服が赤く染まっている。
「なん、で」
嘘だ。嘘だ。嘘だ。
どうして。一体どうして。
身を挺して守ったはずの沙雪に。その胸に。心臓に。
矢が突き刺さっているんだ。
「よし、と、くん――」
こふ、と沙雪の口から真っ赤なものがあふれ出た。ぐらりと振り子のように頭が揺れて、そのままどさりと沙雪の体は地面に崩れ落ちる。
「沙雪、ちゃん?」
名前を呼ぶ。返事はかえってこない。
沙雪は動かない。肩を揺すっても反応しない。
「うそ、だろ」
目は閉じたまま開かない。
義人を見返してはくれない。
何も言わない。
義人の名前を呼んでくれない。
もう笑わない。
義人が何を言ったって返事をしてくれない。
「あ、あ――」
沙雪は。
もう二度と動かない。
「ああああああああああああああぁぁぁぁッ!」
その叫びは断末魔の悲鳴にも似て。
瞬間、全てが暗転した。
※ 鈴川 達臣
「か、は――」
胸が熱い。口から大量の血が溢れてくる。ひゅうひゅうと苦しげに喉が鳴った。
なんだ。何が起こった。まるで理解できない。
あの女の心臓を射抜いた瞬間、いきなりこうなった。鏡花が放った矢は一あの本だけ。達臣には矢なんて刺さっていない。なのに何故こんなことになっている? これではまるで心臓を射抜かれたみたいではないか。
「鈴川」
声が聞こえた。あいつだ。この首を撥ねやがったやつ。一番殺したいやつ。
達臣は確信する。またお前か!
「く、そ」
首を撥ねられても死ななかったのは誰だ。この程度が一体なんだというのか。そうは思うものの、それで状況が変わるわけでもなく。
「てめえ、は、ころす――」
ふらつく足で達臣はその場から駆け去った。生まれてこの方味わったことのない屈辱とともに。
※ 橘 鏡花
何故だ。何故こうなる。
また助けられなかった。悠馬が来なければきっと義人まで殺されていたに違いない。
――お前には何も出来ない。
達臣の言った言葉が頭をよぎる。
「ああ、もう!」
鏡花は弓を地面に叩き付けた。こんなもの、何の役にも立ちはしない。
どうしてこうなるのだろう。自分で自分を殴りつけたくなる。落ち着いて考えさえしていればもっとマシなやり方があったはずなのに。
達臣のほうを見てみると、ふらつきながら去っていくところだった。悠馬が何かをしたのだろう。
悠馬はあとを追わない。去っていく達臣の背中をじっと睨みつけている。
そして、そこから少し離れたところには。
「沙雪――」
真っ赤な血溜まりを作って倒れている沙雪。その上に覆いかぶさるようにして義人が居る。
もう沙雪は息をひきとっているのだろうか。なんと声をかけていいのか分からない。身を引き裂かれるような想い、という言い方があるけど、まさしく今の義人はそれを味わっているに違いないから。
やがてゆっくりと金色の光が立ち昇り始めた。
沙雪が消えてしまう。その時になってようやく鏡花は自分の胸を締め付ける喪失感に気がついた。そう、悲しんでいるのは義人だけではないのだ。それを伝えてあげれば少しは救いになるのだろうか。とにかく何か言わなければと思って口を開きかけたその時。
「え?」