ぼくのせかい
達臣の目がこちらを見た。繋げる角度が少しずれていたのか、首の皮膚が変なふうによじれている。
胃の中身が逆流しそうになるのを必死にこらえる。暢気にそんなことをやっている場合じゃない。だって、達臣の手に拳大の石が握られているのが見えたから。それを振りかぶって今まさにこちらへ投げようとしているから。
相手は腕を振るうだけで人間を粉々にしてしまう化け物だ。そいつがあんな石を投げたりしたらどうなるのかは考えるまでもない。
「七海、避け――」
情けなく震える自分を叱咤して、なんとか鏡花が声を出したのとほぼ同時。隣に立っていた七海の体がまるで大型車に轢かれたかのように吹き飛んだ。
ぐしゃりという粘着質な音。やがて舞い上がる光の粒。
「あ――」
そんな声しか出てこない。
なんということだろう。まただ。また助けられなかった。一気に広がる後悔と自責の念、それでもなんとかそれを鏡花は抑えつけた。今は落ち込んでいる場合じゃない。
「あんたたち、逃げて!」
きっと達臣は自分を狙ってくるはずだ。だったらここから離れさえすれば残ったみんなの安全だけは確保できる。
一番冷静だったのは沙雪だ。義人の手を強引に引っ張って駆け出そうとする。でもその義人は行っていいものやら迷っている様子だ。その場に居るもう一人、祐樹に至っては動こうとすらしていない。
鏡花がもう一度声を上げようとしたちょうどその時。開きかけた口がいきなりがばりと塞がれた。
「心配すんなよ。まずはあいつらからやるつもりだから」
声が聞こえても、自分の口を塞いでいるのが達臣の手なのだと気付くのにしばらくかかってしまった。
そんな馬鹿な。見える距離だったとは言え、鏡花から達臣まではそれなりに離れていたはず。何故こんな一瞬で近付いてこられるのだ。
何か言おうにも、口を押さえられていては「んー!」とくぐもった声しか出せない。達臣の手にはなんだかぬるぬるとしたものがこびりついていて、嫌悪感と恐怖で頭がどうにかなりそうだ。
「相変わらずいい匂いがするなあ、お前の髪」
変態。その罵りを視線に乗せて睨んでやると、ようやく口を押さえていた手を達臣は退けた。どん、と突き飛ばされて、鏡花は尻餅をつく。
「どうせお前には何もできやしねえんだ。いいから黙って見てろよ」
達臣は沙雪たちの方へ歩いていく。鏡花のことを心配してか、沙雪たちはまだ逃げずに残っている。
鏡花の脳裏に一人の男の姿がよぎったが、すぐのそれを打ち消す。ダメだ。人に頼っていられる状況じゃない。
何が「何もできやしねえ」だ。目にものみせてやる。
確かに腕力では敵わない。でもこっちだって選ばれた四人のうちの一人なのだ。条件は対等。甘く見るな。
立ち上がって、鏡花は弓を構えた。
――今度こそ、助けてみせる。
※ 蒼士 悠馬
「――馬鹿な」
珍しく、悠馬が心底驚いた様子を見せた。
「どうしたの?」
啓太が戸惑ったように言う。
「お前はここに居ろ」
それだけ言って、悠馬は元来たほうへ駆け出した。追いすがるように啓太がまた何か言ったが、もう悠馬は振り返らない。
「くそ。俺はまた判断を間違ったのか?」
いまいましげに呟くその声は、誰の耳にも届かない。
※ 藤井 義人
こちらへ歩いてくる。首を撥ねられて死んだはずの鈴川達臣が。
まず狙われたのは白石祐樹だった。あ、と思うひまもない。達臣が祐樹に近付いた次の瞬間にはもう祐樹の体は四散していた。立ち昇る金色の光。それを纏うようにして達臣はまた近付いてくる。次はこちらを狙うつもりなのだ。
「す、鈴川くん! なんでこんなことを!」
最後の希望を込めて義人は叫ぶ。だって光になって消えてしまったのも、それをやった鈴川達臣も、毎日同じ教室で勉強したりおしゃべりしていたクラスメイトなのだ。どうしてこんなことになるのかさっぱり分からない。
「あん? なんでって……自分の所有物をどうしようが俺の勝手だろ」
所有物。それがクラスメイトたちのことを指しているのだと気付くのにしばらくかかった。
理解できない。何故他人をそんなふうに思えるのだろう。
「なんだよその顔は。お前だってその女がお前の言うことを聞かずに勝手なことをしてたらムカつくだろ? それと一緒じゃねえか」
思わず「え?」と声を上げたのは、達臣の台詞が意外だったからではない。一瞬だけ。ほんの一瞬だけだったけど。その言い分に納得しようとした自分が居たからだ。
所有物。沙雪が義人の。だから腹が立った? 義人の知らないところで勝手なことをしていたから?
達臣はゆっくり近付いてくる。まるでこちらが怯える様を楽しむかのように。
ダメだ。怖がっていてはダメだ。
盾を持つ手に力を込めて義人が前に出ようとしたちょうどそのときだった。ひょいっという具合でその盾が奪われたのは。
「ごめん。これ、返してね」
妙に落ち着いた声でそう言ったのは沙雪だ。一瞬にして義人は混乱する。「返してね」ってどういう意味だ?
沙雪は義人を背中でかばうように立つ。達臣が「ふん」と鼻で笑った。
「なんだ。そういうことかよ」
そういうこと? なんだ、何を言って――
「ごめんね。義人くんがすっかり勘違いをしてたからなんだか言い出せなくて」
勘違い。何のことだ?
――いや。
思考を停止させるな。頭を働かせろ。
さっき沙雪は何と言った?「返して」と、そう言わなかっただろうか?
返す。つまり貸し借りが無くなって元通りになるということ。だったらどういうことになる? あの盾は元々誰の物だった?
「……はは」
すとんと理解が胸に落ちてきたとき、義人の口から場違いな笑いがこぼれた。
なんというつまらないオチだろう。要はそういうことだったのだ。
思い返してみれば確かにそうだ。あの時、暗闇の中であの盾は義人の前ではなく「義人たち二人」の前に現れた。それを義人が勝手に取って自分のものだと思い込んでいただけ。
義人は自分に「力」がないことを不思議に思っていた。でもそれは当たり前のことだったのだ。「力」は沙雪に与えられていたのだから。
「あいつは私が食い止めるから、義人くんは逃げて」
義人を背中でかばって立つ沙雪。何故彼女を疑うようなことをしたのだろう。
沙雪は「力」を授かっていた。それで全て辻褄が合う。あそこへ行けたのだってそのおかげ。鏡花と会えたのだってきっとそれがあったからなのだろう。あの時「迷った」と言ったのはきっと酷いことが起こっているのをどうにかして沙雪が知って、そこへ義人を近付かせないための方便だったのだ。
鏡花は耳がよくなったと言っていたからきっと沙雪のはそれとは違う。目だろうか。そうかもしれない。でもそんなことはどうでもいい。重要なのは「義人が一人で勝手に勘違いして勝手に沙雪を不審に思っていた」ということだ。
達臣が近付いてくる。義人の前には沙雪が立っている。ダメだ。あんな化け物に盾一つで立ち向かえるわけがない。
「沙雪、ちゃん」
名前を呼んでも沙雪は背中を向けたまま何も言わない。声は小さすぎて聞こえなかったのか、それとも単に応える余裕がないのか。