ぼくのせかい
やっぱりあいつは「論外」だ。鏡花は思う。だって、何を考えているのかさっぱり分からない。必要最低限のことすら言わないし、感情を顔に出すことも滅多にない。さっきだってずっと無愛想な顔のままだと思ったらいきなりあんな――なんというか、認めたくないけどこっちを労わるような優しさのような。見ようによってはなんだか照れていたようにも見えたけど、あの男に限ってそれはないと思う。
だからもうあいつのことは放っておこう。とりあえず今のところは。
「鏡花ちゃん、もう大丈夫?」
ちょうどいいタイミングで沙雪が声をかけてくれた。そう、あいつのことばかり考えてちゃいけないのだ、今は。
「うん。ごめんね、みっともないところを見せちゃって」
沙雪は何も言わずににこりと笑った。気にしてないよ、ということだろう。
ほら。沙雪とだったらわざわざ言葉を交わさなくたって気持ちを通じ合えるのだ。やっぱりあいつはおかしい。論外だ。
「で、あんたらはこれからどうする――」
「それなんだけどね」
何やら強い口調で沙雪は鏡花の言葉をさえぎった。ちらりと義人のほうを伺って、声が届かない距離に居ることを確認してから沙雪は言う。
「私たち、鏡花ちゃんとは一緒に居られない」
「え?」
聞き違いかと思った。だって、沙雪たちは鏡花を探して合流しようとしていたくらいなのだ。今さらそんなことを言い出す理由が分からない。どうやらそれが顔に出てたらしく、
「どうしてか分からないって顔してるね」
沙雪はこう言ってきた。らしくない、いっそ冷淡とすら言ってしまえる声で。
「だって、鏡花ちゃんは人を傷つけたもの。そんな人と一緒に居たら義人くんがまた危ない目にあうかもしれない」
思わず息を呑む。それは確かにそうだけど、でも。
「そんな。だってあれは、あいつらが酷いことしようとしてたから――」
「でも殺そうとしてたわけじゃない。あそこまでする必要はなかったわ」
ぐ、と言葉に詰まる。鏡花の意図するところではなかったとはいえ、鏡花の放った矢があの男の腕を吹き飛ばしてしまったのは事実だから。
「ごめんね。私だって鏡花ちゃんが一方的に悪いと思ってるわけじゃないの。でも、義人くんが危ない目にあう可能性は少しでも減らしておきたいから」
ちっとも心のこもっていない「ごめんね」。自分にとって一番大事なのは義人なのだ、それ以外のことは二の次にすら考えてはいないのだと如実に示している台詞。
「どうしてそこまで――」
思わずもらした鏡花の一言に、沙雪はふっと微笑んで見せた。
「鏡花ちゃんもいつか本気で人を好きになったらきっとわかるよ」
言って、沙雪は義人のほうを見る。義人は祐樹と七海のところへ行って何かを話しているのでこちらの様子には気付いていない。
「彼に嫌われないためにずっと努力してきた。鏡花ちゃん、知ってるでしょ? 私があまりお化粧得意じゃないこと。でも毎日時間をかけて頑張ってる。髪型だって彼の好みに合わせて変えた」
たしかに知っている。義人と付き合うようになってから沙雪は随分と変わった。入学したばかりの頃は幼さの残る「女の子」だったのに、今ではすっかり「女」の顔になっている。
「見た目のことだけじゃない。彼の前ではずっと健気な女を演じてきた。あなただけを見てますってね。彼、そういうのに弱いみたいだから」
「そんなの……しんどくないの? 辛くないの? 藤井くんの前ではあんた、ずっと無理してるってことでしょ?」
口をはさんでいいのかどうか分からなかったけど、言わずにはおられなかった。
「違うよ」
沙雪は目を伏せてたしなめるように言う。
「義人くんに愛してもらえるのが私の幸せなんだもの。辛いわけなんてないでしょう?」
それはまるで誇るような口調で。
「それにね。やってるうちにどんどん気持ちが演技に追いついてくるの。義人くんが私の全てだっていうのが本当になってくる。今じゃあ私、演技なんてちっともしてない。どうやってこの気持ちを彼に伝えたらいいのか、そっちに困ってるくらいだもの」
分からない。「本気で人を好きになったらきっとわかる」と沙雪は言ったが、それは一体どんな気持ちなのだろうか。本当にいつか自分もそうなるのだろうか。想像できない。少なくとも今はまだ。
「だから……もう一度言っとくね。ごめん。鏡花ちゃんは大切な友達だけど、やっぱり義人くんのほうが私には大事なの。だから一緒にいられない」
分かった、と言うしかなかった。これだけのことを言われてはああだこうだと反論する気力も湧いてこない。
さすがに沙雪も「今すぐどこかへ行け」と言うことはせずに、そこで会話を打ち切って義人のほうへ歩いていった。もしかすると「自分の意思で去っていったように見せかけろ」ということなのだろうか。さすがにそこまでしてやる義理はないのだけど。
でもとりあえずそれはいい。そんなことよりも――なんだろう。違和感がある。今の話、どこかがおかしいような気がして仕方が無い。沙雪と義人がどうのとかいうのではなく、もっと根本的な部分で。
しばらく考えて、
「――え」
気付く。
「待って」
思わず呼び止める。
ここで何があったのか、まだ沙雪たちには話していない。なのに。
「なんであんた、私が何をしたか知ってるの?」
沙雪はそれに答えず、振り向いてふっと笑って見せただけだった。
※ 鈴川 達臣
――嘘だ。
達臣は思考する。首から下を失ったまま。
こんなことがあるはずがない。鈴川達臣がこんなところで死ぬはずがない。その程度の存在ではないはずだ。
視線を巡らせてみると、首を失って倒れている自分の体が目に映る。まだ消えていないようだ。他のやつらは死んだらすぐ光の粒になって消えてしまったのにどうして自分だけは消えないのか。
いや。もしかすると前提が間違っているのだろうか?
達臣は体に力を入れてみる。視界の先で指先がぴくりと動くのが見えた。
やっぱりそうだ! 声もなく達臣は快哉を叫ぶ。この鈴川達臣が首を撥ねられた程度で死ぬはずがなかったのだ。
立ち上がる。首を失った体がこちらへ歩いてくる。
自分で自分の首を拾い上げたちょうどその時、誰かの悲鳴が聞こえた。どうやらあいつらはまだ近くに居るらしい。
――さあ。皆殺しだ。
※ 橘 鏡花
それを見てしまったのは偶然だった。
突然義人と沙雪がケンカを始めてしまって。どうしていいか分からずおろおろしていたらふと視界の片隅で何かが動いているのに気がついたのだ。
何だろうと思ってそちらを見た瞬間、鏡花の全身に戦慄が走った。
まるっきりホラーだ。首を失った死体がひとりでに動いて自分の首を拾い上げようとしているのだから。
つられて見てしまったのだろう、隣で七海が甲高い悲鳴を上げた。正直鏡花もそうしたかったのだけど、体が凍り付いてしまってそれすらもままならない。
首を拾い上げた死体はそれを元の位置にあてがった。まさか、と鏡花が思った次の瞬間にはもうその危惧が現実になっていた。
くっついた。一度離れ離れになった首と体が。
生き返った。首を撥ねられた人間が。