ぼくのせかい
「義人くん。私、行ってあげなくちゃ」
行かせていいのか、と一瞬だけためらってしまった自分に義人は驚く。沙雪は鏡花をなぐさめてあげようとしているのだ。それを止める理由が一体どこにあるというのか。
「うん」と頷くまでに少し間が開いてしまったことを、沙雪はどう思っただろう。ただ沙雪のことを心配しているだけだと思ってくれればいいのだが。
鏡花のところへ歩いていく沙雪。その姿に気付いた悠馬はすっと立ち上がって鏡花から離れた。後は任せた、といったところだろうか。
入れ替わるようにして沙雪が鏡花の前にしゃがんで、そっと鏡花の頭を腕で包み込んだ。沙雪の胸に顔をうずめて鏡花はまた泣いた。沙雪は何か声をかけているようだけど、声が小さくて義人には聞こえない。
そう。あれこそが本来の沙雪だ。ああいう彼女を義人は好きになった。いくらこんな状況だとはいえ、沙雪のことを変に疑ったりしたらその気持ちすらぐらついてしまうことにもなりかねない。それだけは嫌だ。
よし、と心を決めて、とにかく悠馬から話を聞いてみようと義人が一歩を踏み出したちょうどその時、誰かがこちらに走ってくるような足音が聞こえてきた。
見れば、その足音の主はどうやら佐藤啓太のようだ。慌てた様子でこちらへ走ってくる。で、首なしの死体を見てぎょっとしたように足を止めた。
「遅いぞ、佐藤」
悠馬が声をかけた。荒い息をつきながら途切れ途切れに啓太は声を出す。
「い、いや蒼士くんが、はやすぎ……っていうか、何があったの、他の人たちは、どこ?」
どうやら啓太はひどく混乱しているようだ。無理もない、と義人は思う。何も分からないというのでは義人と啓太は同じ立場だ。
「あ、サユちゃん。よかった、無事だったんだね」
「え?」と思わず義人は声を上げる。サユちゃん。それってやっぱり――
「あれ、啓太くん。いつの間に?」
応えたのはやっぱり予想通りの彼女だった。鏡花を抱きかかえたまま顔だけを啓太のほうに向けている。
「ひどいな。気付いてなかったんだ」
「ごめん」と沙雪は軽い口調で言ってまた鏡花のほうに向きなおした。
サユちゃん。啓太くん。お互いが口にしたその呼び方が気になる。随分と言い慣れた感じだった。沙雪が佐藤啓太と親しいだなんて聞いたこともなかったのに。
「お前ら、仲がよかったのか?」
義人が訊きたくて仕方が無かったことを悠馬が代弁してくれた。
「家が近いからね。子供の頃からの付き合いなんだよ」
啓太が答える。
家が近い。子供の頃からの付き合い。つまり幼馴染というやつか。義人が知らない沙雪の顔をあの啓太は知っているということか。
何だろう。胸の中がもやもやする。
分かっている。義人と沙雪が出会ったのは高校に入ってからなのだから、それ以前に親しくしていた男の子の一人や二人はもちろん居たのだろう。それくらいは構わない。そんなことにまで目くじらを立てるほどつまらない男ではないつもりだ。
でも、それが過去のことだというのなら。特別なことは何もないというのなら。何故今まで教えてくれなかった。
「沙雪ちゃん」
名前を呼ぶ。「ん?」と沙雪がこちらを向いた。いつもどおりの愛らしい顔。でもなんだか今はそれが遠い。
「あの――」
「俺はもう行くぞ」
何を言うのかも決まらないままに義人が口を開きかけたとき、悠馬の声がそれを遮った。
「え? 行くってどこへ?」
慌てて言ったのは今来たばかりの啓太だ。
「別にどこでもいい。鈴川の首をはねたのは俺、つまり俺は人殺しなんだ。そんなやつと一緒だったらみんな不安だろう?」
思わず息を呑む。やっぱり達臣を殺したのは悠馬だったのだ。
でも、それを知ってもなんだか悠馬を責める気持ち、恐れる気持ちが何故か沸いてこない。一体何があったのか、純粋にそれを不思議に思う。
悠馬はくるりと背中を向けてどこかへ歩いていく。
「ぼ、僕も行くよ!」
啓太が慌ててそのあとを追った。と、そこへ。
「待って」
誰かが言った。沙雪ではない。声が違った。何故だかそれに安心している自分が居ることに義人は気付く。
悠馬は足を止めて声のしたほうに振り向く。その視線の先に居るのは鏡花だ。まだ目は赤いけど、いつの間にか自分の足で立ってしっかりと悠馬を見返している。
「あの……なんて言ったらいいのか分からないけど」
鏡花は何やらひどく言いにくそうにしている。言葉どおり、なんと言ったらいいのか分からないようだ。悠馬は表情を変えずに、
「俺が憎いのか? 鈴川とは幼馴染だったんだろ?」
「違う!」
鋭い声で鏡花は悠馬の言葉を否定した。
「あれは……ああするしかなかったって分かってる。てゆーか本当だったら私がしないといけなかった。だから、えっと、その――」
鏡花は言葉に詰まっている。その時、偶然に悠馬の顔を見てしまって義人は驚いた。何故って、さっきまでとはうって変わってこの人物にはおおよそ似つかわしくない表情をしていたから。
「気にするな」
相変わらず言葉はそっけない。でもなんだかそこにありったけの感情が込められているような気がした。
「じゃあな」とだけ言い残して悠馬は去っていく。ちらりと鏡花の様子を横目で窺うと、なんだか信じられないものを見たような顔で悠馬の背中を見つめていた。どうやらさっきのは義人の見間違いではなかったようだ。
蒼士悠馬。あの男をどう扱っていいものやら、義人には見当もつかない。
去っていくその背中をしばらくぼんやりと見つめていた義人は、
「あ、そうだ。義人くん、さっき何を言おうとしたの?」
沙雪の声でふっと正気に戻った。
「ああ、いや、大したことじゃないんだ。また後で言うよ」
聞きたいことはたくさんある。でも義人がしたいのは感情のままに沙雪を問い詰めることではない。もしあの時悠馬の声に遮られなければそれをやってしまっていたかもしれないのだ。
(ひょっとして――)
ふと思う。もしかして悠馬はわざとやったのだろうか? 考えすぎだとも思う反面、さっきのあれを見た後ではあり得る話だとも思えてしまう。
これからどうすればいいのかは相変わらず分からない。でも、ひょっとするとみんなのことをもう少し信じてあげてもいいのだろうか。そう思った。
※ 橘 鏡花
気にするな。蒼士悠馬はそう言った。
気取るな。鏡花はそう言い返したかった。
何が「じゃあな」だ。あいつは本当に分かっているのだろうか。「お前のせいじゃない」というあの言葉が鏡花にどんな効果をもたらしたのか。
許せない。あんな爆弾を投下するだけしておいてさっさとどこかへ行ってしまうなんて。言いたいことさえろくに言えなかったじゃないか。
分かっている。だったら追えばいい。追って、今の気持ちをぶつけてやればいい。それをしないのは、今行ったところできっと何を言えばいいのか分からないから。